外交の達人
戦国時代の軍師の大きな仕事の一つに、敵方との交渉がありました。戦いになれば犠牲が出ますし、出費も大きく、できれば、戦わずに丸く収めたいと考えるのは戦国大名にとって当然のことです。
そこで、外交に長けた軍師が活躍することになりました。
講和交渉に出るのは僧侶である場合が多いですが、中でも、毛利氏の使僧として有名な安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)はその代表格といっていいでしょう。
恵瓊の父・武田信重は安芸の守護大名でした。普通ならその地位を継ぐところですが、天文10年(1541)5月、信重が居城だった銀山城を毛利元就に攻められ、殺されてしまいました。
まだ幼い恵瓊の当時の名前は竹若丸。彼は家臣に守られて脱出し、安芸の安国寺に匿われて、そこで出家得度しています。
自分は武士の子だというプライドがあり、はじめは武田家再興を夢みていた可能性もあります。しかし元就が安芸だけでなく、周防や長門にまで勢力を広げていく様子をみて、恵瓊は、そのまま僧侶として生きていく道を選んだものと思われます。
やがて、毛利氏の使僧として恵瓊の名がみられるようになります。