とっつきにくい男
薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼ・としみち)は、明治初期の新政府で最も権力のある人物だったとよく言われます(実際には公家出身の三条実美や岩倉具視の方が地位は上でしたが)。
※あわせて読みたい!
どこで違った、二人の道。西郷隆盛と大久保利通の友情と決別 [前編]
明治時代、数々の政敵を葬り去った冷血漢・大久保利通の意外な一面「すべてはこのひとときのため」
彼は強力なリーダーシップを発揮して殖産興業を推し進め、最終的には現在の内閣総理大臣に相当する内務卿にまで上り詰めています。
にもかかわらず、大久保とともに「維新の三傑」に挙げられる西郷・木戸と比べると人気はかなり低いと言えるでしょう。
それは、大久保は権力を握ると私利私欲で国を動かし、政府内外から反発を受けたというイメージが先行していたからです。いわば彼を悪徳政治家扱いする見方が一般的だったのです。
例えば、彼は「とっつきにくい」人間だったという証言を、多くの政府高官が残しています。官庁内で大久保の靴音が聞こえると、それまで雑談をしていた職員たちが私語をやめたというので、近づきがたい人物だったことは間違いないでしょう。
不人気の理由
そんな「とっつきにくい」人物像もあってか、大久保は在世中から不人気でした。しかしそれは、いくつかの特殊な理由が考えられます。
例えば西南戦争で盟友の西郷を亡き者にしたことや、政府が帯刀と禄の支給という士族の特権を奪ったこと、攘夷を掲げたにもかかわらず維新後は欧化政策に転換したことなどが影響しているのでしょう。
政府のトップだったからこそ、あらゆる政策への批判が大久保にのしかかったと言えます。
これらの行動は、早期に近代化・中央集権化を実現することが目的だったと考えられます。旧習の撤廃や殖産興業政策は、そうした危機感の表れでした。
彼は岩倉使節団の一員として欧米に渡っており、イギリスでは工業力を、フランスでは文明の成熟度を、ドイツでは新興国ならではの勢いなどを学んでいます。
この視察によって西洋文明の先進性に衝撃を受けた大久保は、このままでは日本が欧米の植民地になるという危機感を抱いていたのです。