前編では、天草四郎の人物像や伝説について紹介しました。後編では、天草四郎が歴史の表舞台に現れる『島原の乱』と彼の最期、噂について解説します。
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総大将は16歳の少年キリシタン。悲しき運命に翻弄された「天草四郎」の実像【前編】
悲しき運命に翻弄された天草四郎
天草四郎が歴史の表舞台に現れた『島原の乱』。島原の乱という一揆が起こった背景から、悲しい運命をたどった少年の軌跡を解説します。
島原の乱総大将として祭り上げられた少年
島原藩のキリシタン弾圧が激しさを増し、領民は年貢を払えなくなるほど生活に困窮していました。最悪の藩主松倉勝家(まつくらかついえ)は、キリシタンや年貢を払えなくなった領民に対し非人道的な拷問や処刑を行います。領民やキリシタンらの我慢もとっくに限界を超えていました。そんな中、遂に1637年12月11日「島原の乱」が勃発します。
その総大将となったのが、わずか16歳の少年であった天草四郎だったのです。カリスマ性のある予言の子として「救世主」に祭り上げられました。本人の意思というよりは、一揆を先導していた父や浪人たち、キリシタンらによって担ぎ出された可能性が高いです。
天草四郎は、戦い方も総大将としての心構えや覚悟もよくわからないうちに「島原の乱」の総大将として幕府軍と相対するのです。
島原で起こった一揆には、天草での反乱で離反した武士など総勢37,000人もの人々が集結しました。これだけの人々が集結したのは、天草四郎の持って生まれたカリスマ性が大きかったのかもしれません。総大将となった天草四郎は、4カ月に及ぶ『島原の乱』を戦っていくことになったのです。
天草四郎の最期
幕府側は3度戦ってすべて敗戦したため、兵糧攻めに作戦を変更します。この結果、反乱軍は勢いを失いました。天草四郎が法度によって一致団結させ、勢いを取り戻そうとします。しかし、反乱軍は食料を全く取れず限界寸前。その時、幕府側の一斉攻撃が始まり、関わったものは皆殺しにされてしまいます。結局内通者の南蛮絵師だった山田右衛門作(やまだえもさく)のみが生き残ったのです。
幕府側は、総大将だった天草四郎の顔を実は全く知りませんでした。そこで皆殺しにした後、年頃が同じ位の少年たちの首を天草四郎の母親にかわるがわる見せたのです。すると、ある少年の首を見た母親の顔色が変化し、泣き崩れました。その様子を見て、天草四郎の首と判断したのです。
天草四郎はキリシタンや領民達と命尽きるまで戦い、16歳というあまりにも短い生涯を終えたのでした。