暗君とは、おろかで無能な統治者の事を指します。江戸時代に唯一罪人として斬首になった藩主が松倉勝家(まつくらかついえ)。
大名なのに切腹ではなく斬首刑!?異例すぎる最期を遂げた江戸時代の大名・松倉勝家の生涯
みなさんは、江戸時代の大名・松倉勝家(まつくら かついえ)という人物を知っていますか?あまりなじみのない名前、かもしれませんが、実は日本史上で有名な「乱」と非常に密接な関係があります。そこで、…
松倉勝家の父親の松倉重政(まつくらしげまさ)もまた暗君でした。親子2代にわたって肥前国島原藩(初期は肥前日野江藩)の藩主として、領民を悲惨な運命に導くのです。その結果が島原の乱へ……。
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今回は江戸時代の最悪の藩主と言われる松倉親子が、島原の乱の原因を作った暗君と言われる理由について解説します。
藩主となった松倉重政
松倉重政は暗君と呼ばれていますが、島原藩の藩主となる前は名君になると言われたほどの片鱗を見せていました。まずは藩主となる前の松倉重政についてみてみましょう。
活躍が認められて大名へ
父松倉重信は、大和郡山城主の筒井順慶(つついじゅんけい)の重臣として仕えていました。石田三成の懐刀の島左近とともに「右近左近」と呼ばれるほどでした。
父重信の死後、重政は家督を継ぎます。関ケ原の戦いでは単身で参陣して徳川家康に戦功を認められ、大和国五条二見城主となり1万石を与えられました。
大名になった重政の働き
ついに大名となった松倉重政は、諸役の免除(夫役や軍役、本年貢以外の租税を免除すること)を行い、商業の振興を図って五条新町を完成させます。領内整備を推し進め城下町を発展させ、商業都市として栄えさせたのです。重政のための祭りが開かれる程に名君の片鱗をのぞかせていました。