暗殺が横行した江戸時代の幕末に「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【前編】

Japaaan編集部

幕末は暗殺が横行した時代。特に有名だったのが、「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれる四人の暗殺者でした。

前半では、四大人斬りのうちの二人、「田中新兵衛」と「河上彦斎」の末路について紹介します。

なぜ暗殺は繰り返されたのか?

幕末は刀で時代を変えようとする志士達によって、暗殺が繰り返されました。桜田門外(さくらだもんがい)の変で大老の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の名もなき志士達によって時代が動いたのをかわきりに、尊王攘夷の大義のもと天誅(天皇に代わって悪人を成敗する)と称して、要人がその刃の対象となりました。

自分達の中では、「暗殺で時代を変えるのが正義」と信じて疑わなかったのでしょう。

幕末の四大人斬り

1 田中新兵衛(たなかしんべえ)

元薩摩藩士の田中新兵衛が、まず暗殺したのが島田左近(正辰)。島田左近は、井伊直弼の右腕であった長野主膳に協力して、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧していました。しかも京都ではそのころ絶大な権力をふるっていて、土佐勤皇党の武市半平太(瑞山)が台頭するまで都の実質的な支配者でした。さらには、1万両を越えた賄賂を江戸幕府より受け取っていました。

脱藩後上京してきてすぐに、田中新兵衛を含む6名で暗殺する計画が持ち上がるも、失敗に終わります。しかし、ここからが田中新兵衛の怖いところ。その後1カ月間、島田左近を追いまわし、鴨川の河原で斬殺し、晒し首にしました。実はこれが「天誅」の先駆けとなりました。

その後、武市半平太と義兄弟の契りを結び、土佐勤皇党の岡田以蔵らと徒党を組んで武市らの指示で暗殺を繰り返します。命令には絶対服従で同士だろうと自分の敵だろうと容赦なく暗殺していきました。本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを集団で次々に暗殺。そのころには「人斬り新兵衛」と呼ばれていました。

田中新兵衛の末路
過激派攘夷論者の公卿の姉小路公知(あねがこうじきんとも)が京都御所、朔平門(さくへいもん)付近で刺客3人に襲撃されるという事件。田中新兵衛は、その朔平門外の変の容疑者として捕らえられ、尋問で一言も発せず隙を見て自刃という末路でした。享年31歳。

実はこの少し前に、坂本龍馬や勝海舟に会って開国派になりつつあったようです。あまりにも手際が悪かったことから、新兵衛の仕業ではないと考えられていました。しかし近年では、この頃はノイローゼ気味で、命令されたのではなく単独犯だったという可能性が高まっています。

3ページ目 河上彦斎(かわかみげんさい)

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