明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【中編】~その思想と信念~

「山城屋事件」の発生

【前編】では、武士の中でも最下層の身分だった山県有朋が、明治政府最大の軍人政治家として出世していくまでの経緯を見てきました。

明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【前編】~「徴兵制」施行まで~

山県有朋はなぜ維新志士となったか明治・大正期を代表する政治家であり、「超」がつく大物でもある山県有朋(やまがた・ありとも)。彼は二度内閣総理大臣を務めた偉人でもあるのですが、長らく歴史上で「悪役」…

本稿では、そんな山県が敷いた「徴兵制」や、その言動から垣間見える彼の思想と信念について解説しましょう。

彼はとんとん拍子で出世したものの、完全に順風満帆だったわけではありません。1872年には山城屋事件という事件が起きています。これは、陸軍省の御用商人だった山城屋和助が山県から陸軍省官金の不正融資を受けたという疑惑を江藤新平らに追及されたもので、山城屋は自殺し山県は辞職に追い込まれました。

しかし驚くべきことに、山県はその後たった二カ月で初代陸軍卿として復職しています。これは、明治政府の人間たちが「山県抜きでは日本陸軍の創設が遅れてしまう」と考えたからで、山城屋事件はかえって山県有朋という人物の信頼の高さを際立たせる結果になったと言えるでしょう。

山縣有朋は「民衆の敵」か?

ところで、そんな山県は戦後、しばしば「民衆の敵」として描写あるいは記述されてきました。これについては半分正解、半分間違いと言えます。彼は、普段は汗水流して働き、戦争の際には命を投げ出して戦うような民衆に対しては愛情を持ち、自分の召使にも優しく親切な性格だったといいます。

つまり彼が「愛すべき国民」と考えていたのは、国家や政府のために尽くす人々だったと言えます。その逆、反政府の人々や政府の批判者は、山県にとって唾棄すべき存在でした。

その、唾棄すべき存在の最たるものが自由民権運動の担い手たちです。最近はよく知られるようになってきましたが、当時の自由民権運動は穏健なものではなく、特に急進的だった運動家は政府転覆論をぶち上げていたとされています。

そうした、山県のいわば「国家第一主義」がもっともよく表れていたのが、竹橋騒動です。これは近衛兵たちの反乱事件で、原因は西南戦争時の近衛砲兵隊に対する論功行賞の遅れと給与の引き下げが原因でしたが、山県は騒動の背後には、軍人たちへの民権論の浸透があるとにらんでいました。

そこで山県が中心となり作られた軍人勅諭では、「兵力は国家を保護し国権を維持するのが役割である。兵士は世論に惑わされず、政治にかかわらず、ただ一途に自分の本分の忠節を守れ。義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽いと思え(意訳)」と書き記しています。

軍人が政治のことに口出しするな、と厳しく戒めている内容で、ここには山県の国家第一主義や、軍人政治家としての矜持が見て取れます。

2ページ目 「軍事・政治」分離思想

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