江戸時代「黒船」は庶民の好奇心を刺激した!ペリー来航に人々はどう反応したのか

黒船来る!

1853年(嘉永6年)に、アメリカの軍人マシュー・ペリーがいわゆる黒船に乗って日本へ来航しました。

浦賀に来航したこの軍艦はフリゲート艦のサスケハナ号といい、船体に防水・防腐のための黒い樹脂が塗られていたため「黒船」と呼ばれるようになったのです。

ちなみにサスケハナとは、まるで日本語のようですが実はインディアンの言葉で「広く深い河」を意味し、主にペンシルベニア州を流れるサスケハナ川が由来になっています。

さてこの黒船が来航したときというのは、私たち現代人の感覚だと「アメリカの軍艦の威容にさぞ驚かされ、庶民は恐怖し大パニックに陥ったことだろう」と思いがちですが、実際にはそうでもありませんでした。

確かにそういう部分もありましたが、むしろ黒船来航は、日本人の好奇心や商魂などを大いにくすぐったようです。

黒船見物は楽し!?

240年近くも鎖国し続けた日本の人々が、長崎以外で外国船を目にする機会というのはほとんどありませんでした。よって黒船来航時は、この未知の船を見ようと、浦賀周辺に見物人が押し寄せたといいます。中には遠方からはるばる見物に来る人もいました。

これについては江戸町奉行所をはじめ、幕府老中までもが見物禁止の達書を出したほどですから、庶民の熱狂ぶりもなかなかのものです。

もちろん、大砲が撃たれた時はさすがにちょっとした騒ぎになりましたが、空砲だと分かると、今度は花火代わりだと言って楽しむ者すらいたとか。当時の庶民は意外に逞しかったのです。

しかし楽しんでばかりもいられません。幕府は、アメリカと通商条約を結ぶか否か考えるにあたり、全国の諸大名に意見を求めますが、この時、庶民からも意見を募りました。

尊王攘夷思想に基づき、外国船を追い払おうという考え方も広まっていたので、この募集に対してはさまざまな意見が寄せられたといいます。

3ページ目 「俺ならこうやって追い払う!」

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