武田の血統と誇りを後世に。勝頼滅亡後も生き延びた信玄の甥・川窪信俊の武勇伝【どうする家康】

天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山(山梨県甲州市)で武田勝頼(演:眞栄田郷敦)主従が自害。ここに甲斐源氏の名門・武田家は滅亡してしまいます。

その残党を根絶やしにせんと躍起になる織田信長(演:岡田准一)。一方で、優れた家臣を召し抱えようと手を尽くしたのが「我らが神の君」徳川家康(演:松本潤)でした。

今回は家康に召し抱えられた武田遺臣の一人、川窪信俊(かわくぼ のぶとし)を紹介。

NHK大河ドラマ「どうする家康」には登場しないでしょうけど、実に興味深いエピソードです。

親の遺徳を子に報ゆ

「殿、お引き合わせしたき者がございます」

家康に声をかけたのは、家臣の篠瀬某(ささがせ なにがし。実名不詳)。

「以前、それがしが殿のお怒りを買ってしまい、甲斐国へ逃亡した時のことを覚えておいででしょうか」

「あぁ、そんな事もあったな」

甲斐国へ逃れた篠瀬某を受け入れてくれたのが武田信実(たけだ のぶざね)。信玄の弟です。

後に家康の怒りがとけて帰国を許された際、信実は「徳川殿は鷹狩りをお好みだそうだから、これを土産に持って行くがよい」と、二羽の鷹をくれたのでした。

そんな信実は長篠の戦い(天正3・1575年5月21日)で討死してしまうのですが、信実の子・武田信俊が匿われているとのこと。

「それはよい。鷹の恩返しも兼ねて、さっそく召し抱えよう」

という訳で、父の遺徳によってとり立てられた信俊は、甲斐国川窪に所領を与えられます。

これを機に、苗字を川窪と改めた信俊。武田の誇りに恥じぬよう、家康の甲信地方平定(天正壬午の乱)に武勇を奮うのでした。

2ページ目 数々の合戦で武功を重ねる

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了