長い歴史の中で、大阪は日本一の要地として、多くの権力者が大阪の統治を目指しました。その理由は、海上交通が主流だった時代、大阪は大陸から瀬戸内海を経て運ばれた物資が集まり、そこに人々が集まる要衝であったからです。戦国時代になると、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下人が入り乱れて大阪の争奪戦を行いました。
凄いぞ大阪!織田信長・豊臣秀吉ら時の権力者が欲しがった交通の要衝。大阪の歴史的意義【前編(古代~中世)】
【後編】では、そんな大阪の戦国・近世における歴史的意義を紹介します。
室町・戦国時代の大阪
1467年京都で起きた応仁の乱は、日本各地に広がり戦国時代に突入します。大阪も戦乱により荒廃しました。1496年になると上町台地に、浄土真宗第8代宗主蓮如による石山御坊の建設が始まります。石山御坊は寺院と僧侶の宿舎を併せ持ち、後に石山本願寺と呼ばれるようになります。その後、御坊周辺は寺内町として栄え、現在の大阪の基盤が誕生します。
そんな石山本願寺に目を付けたのが、織田信長でした。古代より交通の要衝である大阪は、天下統一を進める信長にとって、その本拠を置くにふさわしい場所であったのです。
信長は「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」と唱えたといいます。大阪湾には、瀬戸内からも多くの商船が入港します。すでに堺を手に入れていた信長でしたが、大阪を支配することで、さらなる経済の拡張を画策したのでしょう。そして、瀬戸内海に繋がり、大和川と淀川による水運が良好な上町台地を手に入れることは、日本だけでなく、将来的に中国への進出を考えていた信長にとって必要なことであったのです。