NHKの朝の連続テレビ小説『らんまん』は、牧野富太郎をモデルとした作品です。
同作には主人公の師匠の1人として、東京大学の田邊彰久教授が登場します。実はこの田邊教授、ちゃんとしたモデルがいました。
この記事ではモデルとなった矢田部良吉の生涯について追跡。時系列に進める中で、朝ドラと関連ある人々についても紹介していきます。
それでは、矢田部良吉の生涯について見ていきましょう。
矢田部良吉、伊豆国で蘭学者の子として生まれる
嘉永4(1851)年10月13日、矢田部良吉(やたべりょうきち)は伊豆国韮山で、蘭学者・矢田部卿雲の子として生を受けました。母・満寿は沼津藩士・原川氏の出身と伝わります。
良吉が生まれた時代は、激動の年でした。
嘉永6(1853)年、良吉が3歳のときににペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を求めるという大事件が起きています。
風雲急を告げる時代の中、幕府は諸外国からの知識を吸収すべく、蘭学(オランダの学問)を中心とした洋学(西洋の学問)の導入を急いでいました。
特に蘭学に通じた開明派として知られたのが、伊豆国の韮山代官・江川太郎左衛門英龍でした。英龍は反射炉の建造でも知られ、幕末を代表する科学者の一人でもあった人物です。
良吉の父・卿雲は蘭学に通じたことから英龍から重く用いられ、良吉自身も蘭学など西洋の学問を身近に感じて育ったと考えられます。
しかし黒船来航後、朝廷内部では攘夷派が権力を掌握。長州や土佐の一部と結びつき、幕府を対立を深めていきます。
過激な攘夷派の中には、開国派論者を攻撃する人間も出現。実際に京都では天誅と称した暗殺が行われていました。
当時の日本では、西洋の学問を学ぶことはまさしく命懸けだったのです。
しかし良吉は、そんなことは気にも止めずに行動を起こしていきます。
江川邸で学びとそれに飽き足らず、開港まもない横浜で外国人宣教師から英語の語学教育を受けていました。
これからの日本の教育の主軸の一つが英語である、とすでに良吉は感じていたようです。