遺体はどこへ行った?
1582年の本能寺の変で、織田信長が死去したことはご存知の通りですが、その信長の遺体がどこへ行ったのかについては、諸説あり定まっていません。
例えばルイス・フロイスの『日本史』では、毛髪一本残さず完全に灰になったと記されています。しかし、後年に尾瀬甫庵が記した『信長記』や『東大記』では、遺体が完全に焼失したのも不自然なので、光秀が不審に思って探したと書かれています。
かと思えば、『林鐘談』には、光秀が瓜の紋の付いた小袖の焼け残りと、それを身に着けた遺体を見つけて「これが信長の遺体だ」と全軍に見せつけたともあります。
しかし現在も遺体は行方不明のままとされているので、少なくともこの時に光秀が見出した遺体というのは、当時から本物だとは信じられていなかったのかも知れません。
このように、信長の遺体のありかについてはさまざまな説があるのですが、その中で注目すべきものは、阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』という古文書です。
清玉上人の機転
『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は1731年に成立した書物です。阿弥陀寺は京都市上京区にある浄土宗の寺院で、そこで僧たちが書き残した記録書です。これに、信長の遺体の行方が記録されているのです。
本能寺の変が1582年なので、1731年にそれが「記録」されるのはずいぶん遅い気がしますが、実は阿弥陀寺は1675年に一度焼失しており、老人たちの記憶をもとに記録を作り直したという経緯があります。
よってその内容の正確性はやや怪しいのですが、しかしそこには、清玉上人という僧侶が、本能寺の変のさなかに信長の遺骨をこっそり持ち出したという記録が残っているのです。
詳しく説明すると、清玉上人は信長と縁が深く、懇意にしていました。それで本能寺の変の際に寺の敷地にこっそり忍び込むと、数人の武将が信長の遺体を焼いていたというのです。
事情を聞くと、信長が「遺体を光秀に渡すな」と遺言を残していたので、焼いてから自分たちも切腹するつもりだとのことでした。そこで清玉上人は信長の遺骨を集めてこっそり持ち出し、阿弥陀寺に葬ったのです。
実際、阿弥陀寺には信長が葬られているとされる墓が存在しています。
このエピソードは『信長公阿弥陀寺由緒之記録』だけではなく、1680年代に成立した京都の地誌『雍州府志』にも記されているので、信憑性は高いように思われます。