九州三国志の雄・大友宗麟
戦国時代の九州三国志という言葉をご存じでしょうか。織田信長が足利義昭を追放するなどして台頭し始めていた頃、九州では五つの大名が覇を競っていまいたが、なかでも九州三強と呼ばれた北の大友・西の龍造寺・南の島津の三氏が、のちに壮絶な領土争いを繰り広げたことを指します。
今回はその中でも、大友氏がなぜ最終的に島津義久に大敗したのか、その経緯を追ってみましょう。
もともと大友氏は鎌倉時代から続く名門の家系で、三強の中でも最も強大な勢力でした。1560年には大友宗麟が家督を継ぎ、毛利氏が北九州に進出してきた折にはこれを撃破しています。
こうして北九州市の領土を盤石とした大友宗麟は、実はキリスト教に深く入れ込んでおり、このため親族との衝突が絶えなかったと言われています。
キリシタン王国建国の野望
さて、このような状況で、島津義久はもともとは大友氏と同盟関係にありました。
しかしその同盟が破れるきっかけになったのは、島津が日向の伊東義祐を攻めたことでした。義祐は大友宗麟に助けを求め、宗麟もこれを受け入れたのです。
もともと宗麟は「日向国にキリシタン王国をつくる」というすごい野望を抱いており、この一件を足掛かりにしようと考えたようです。
大友・伊東軍はいったんは島津軍を撃破して日向北部から追い払います。宗麟は日向無鹿に本陣を置いており、さらにその先の島津攻略を家臣に任せて、自分自身は周辺の寺社仏閣を破壊して教会建設を推し進めていきました。
この、自らの理想郷建築に没頭したことが仇となります。