斎藤道三は油売りにあらず!?実は親子二代で成し遂げられた「国盗り」の真実【後編】

どんどん下剋上

【前編】では、斎藤道三の父・長井新左衛門尉が、道三の「国盗り」の土台を前もって作っていたことを説明しました。

斎藤道三は油売りにあらず!?実は親子二代で成し遂げられた「国盗り」の真実【前編】

下剋上の体現者下剋上という言葉は戦国時代だけで使われていたイメージがありますが、実は大陸由来の大変古い言葉で、6世紀ころの隋の書物『五行大義』にもこの言葉が用いられています。また日本では、…

【後編】では、そうした土台をもとに道三がどのように国盗りを果たしていったのかを見ていきましょう。

さて、土岐氏の家臣である長井氏のもとで実力を発揮した長井新左衛門尉が亡くなり、その地盤を息子の新九郎(のちの道三)が受け継ぎます。

家督を継いだ彼がさっそく行ったのが下剋上で、彼は主家である長井氏の惣領を討ちました。それに続き、美濃守護代である斎藤利良が病死したことを受け、新九郎はその名跡を継ぎ斎藤利政と改名すると守護代のポジションを手に入れました。

権勢を奮うようになった彼は、ついには1541年に、守護の弟である土岐頼満を毒殺すると、その翌年に守護である土岐頼芸を追放してしまいました。こうして、彼は実質的な美濃の支配者になったのです。

政争としての下剋上

斎藤道三といえば、このように主君を追放したり毒殺したりした下剋上の部分だけがピックアップされがちです。しかし【前編】で説明したように、彼は親子二代で長井氏に仕えていた身分でした。道三の行為は荒々しい下剋上というよりももっと政治的な、政争の一環だったと言えるでしょう。

彼のその後は知られている通りです。一度は追放された土岐頼芸は、尾張の織田信秀や越前の朝倉孝景から支援されて、一度は美濃守護への復帰を果たしました。しかし道三はうまく立ち回り、織田・朝倉と同盟を結んで頼芸の後ろ盾を奪うと、再び追放してしまいます。

2ページ目 成功と没落

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