第二次世界大戦の際に、ユダヤ人を救った日本人というと、真っ先に思い浮かぶのが杉原千畝(すぎはらちうね)ではないでしょうか。
「東洋のシンドラー」としても知られる杉原千畝ですが、実は彼の2年ほど前にユダヤ人難民の救出にあたった人物がいました。その人物が、今回の記事でご紹介する、淡路島出身の旧陸軍中将・樋口季一郎(ひぐちきいちろう)です。
杉原千畝ほどの知名度ではないかもしれませんが、樋口季一郎は実は非常に大きな功績を残した人物でもありました。
樋口季一郎の生い立ち
樋口季一郎は、1888年に淡路島で生まれました。1909年に陸軍士官学校に進む一方、東京外語学校でロシア語を学びます。その後陸軍大学校を卒業し、すぐにウラジオストクで勤務します。その後も満州やロシア、ポーランドなどさまざまな重要拠点で働きました。
特に、ポーランドの駐在武官は当時、対ロシア研究の非常に重要なポストであり、陸軍のなかでもロシア通で知られていた樋口が任命されました。
オトポール事件とは?
1937年8月、樋口季一郎は関東軍司令部付のハルビン特務機関長となります。12月には、ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会が開かれます。その際、ドイツの反ユダヤ政策を批判し、ユダヤ人を擁護する演説を行いました。
ユダヤ人たちからは大きな歓声が鳴り響きましたが、彼の演説は国内外で大きな波紋を呼びます。ドイツ外務省の怒りを買い、関東軍司令部からも批判を受けました。
1938年3月8日には、迫害を逃れてソ連を通過し、ソ連と満州の国境であるオトポールでユダヤ人難民が立ち往生するという状況が起きました。樋口は、助けたいという気持ちと、軍人としての立場とのあいだで揺れ動きますが、自分の失脚も覚悟のうえ、彼らを助けることを決めます。
彼らに食べものや燃料を支給し、満州国の通過を認めました。その後、3月12日には、ユダヤ人難民たちはハルビン駅に到着し、滞在ビザが出されました。これは、杉原千畝がビザを発行する2年前のことです。
ユダヤ人たちのあいだで「ヒグチルート」と呼ばれたこの脱出路。その後も何人もの難民がこのルートを頼ったといいます。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。