鎌倉幕府への造反
新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉幕府を滅ぼした最大の功労者で、かなりダイレクトな意味で「歴史を動かした」と言っても差し支えない人物です。しかしライバルの足利尊氏の存在のせいで、今も影が薄いどころか非常に評価が低いところがあります。
今回は、彼の実績を振り返ってみましょう。
の本名は源義貞といい、源氏の名門・源義国の長男である源義重を祖先に持ちます。
確かな生年は明らかになっていませんが1301年前後の生まれと言われています。
源義重が上野国新田荘(現在の群馬県太田市)を治めていたことから新田本宗家と呼ばれ、新田姓を名乗るようになりました。
のちに対立する足利尊氏も源義国を祖先とし、こちらは次男の義康の子孫でした。
政治的な力と財力をつけてゆく足利氏と比べて、新田本宗家は名門でありながら領地は少なく貧乏で、冷遇されていたようです。
1333年頃、後醍醐天皇による討幕命令を受けた楠木正成が挙兵します。
鎌倉幕府はこれに対して討伐軍を結成し、義貞にもこの討伐軍に参加するよう命令がありました。
一度は討伐軍に参加していた義貞でしたが、途中で病気を理由に引き返します。実はこれは仮病で、後醍醐天皇側から書状を受け取っていたとみられています。