【鎌倉殿の13人】暗殺?毒殺?『吾妻鏡』が伝えない北条義時の死因を紹介

時は元仁元年(1224年)6月13日。鎌倉幕府の執権・北条義時(ほうじょう よしとき)が波乱の生涯に幕を下ろしました。

前奥州病痾已及獲麟之間。以駿河守爲使。被申此由於若君御方。就恩許。今日寅尅。令落餝給。巳尅〔若辰分歟〕。遂以御卒去〔御年六十二〕。日者脚氣之上。霍乱計會云々。自昨朝。相續被唱弥陀寳号。迄終焉之期……

※『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月13日条

【意訳】義時の病気が重く、いよいよ臨終を迎えたため、北条重時(駿河守。義時の三男)を使者に派遣して嫡男の北条政村(まさむら。義時の五男)と正室・伊賀の方(いがのかた)にそのことを伝えさせました。
寅刻(午前4:00ごろ)に臨終出家、巳刻(午前10:00ごろ)か辰刻(午前8:00ごろ)に亡くなりました。享年62歳。
かねて脚気の持病があったところへ、急性腸炎(暑気あたりとの説も)を併発したとのこと。前日の朝から息絶えるまでずっと念仏を唱え続けたとのこと。

……というのが鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』による公式見解。ですが義時の死因については異説があり、今回はそれらについて紹介したいと思います。

義時は暗殺されていた?『保暦間記』『明月記』が伝える義時の最期

これまで比企能員(ひき よしかず)・畠山重忠(はたけやま しげただ)・和田義盛(わだ よしもり)などなど多くの政敵を葬ってきた義時。かつては轡を並べて共闘してきた仲間たちに対して、何と非常な仕打ちでしょうか。

さらには鎌倉殿・源氏三代(源頼朝源頼家源実朝)の暗殺にも深く関与した疑惑があり、利害の対立によって自分の父・北条時政(ときまさ)まで追放。

挙げ句の果てには、畏れ多くも後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)にまで弓を引いて屈服せしめた……という逆賊中の逆賊・日本史上屈指の極悪人として名を遺した義時が、畳の上で死ぬなんて許せません。

死ぬ直前になって仏に帰依して、地獄に堕ちたくないから必死に念仏を唱えたくらいで許されるなんて納得いかない……という願望なのか、あるいは『吾妻鏡』≒執権北条氏当局が隠蔽した真実なのか、義時が暗殺されたとする説を『保暦間記』が伝えています。

……元仁元年六月一二日六十三歳義時思外ニ近ク召仕ケル若侍ニツキ殺サレケリサシモ十善帝王ノ勅命ニ背ノミナラス居ナカラ打勝進ラセレカ共業因ノカレカタキニヤ懸ル不思議トモ□ホウシテ逝去シ玉ヒヌ……

※小瀬道甫『保暦間記』より

【意訳】6月12日、義時(63歳)が側近の若侍に刺殺された。畏れ多くも天皇陛下(十善帝王)に謀叛を起こした罪業から逃れることはできず、かくして権力の絶頂にありながら、無念の最期を遂げられたのであった。

何と義時が側近に暗殺されていたというのです。また藤原定家(ふじわらの ていか)の日記『明月記』では、こんな記述もあります。

……只早頭をきれ、若不然は又義時か妻が義時にくれ遣さむ薬されこるてくはせて早ころせ……

※『明月記』安貞元年(1227年)6月11日条

【意訳】とにかくさっさと首を刎ねろ。そうでなければ、義時の妻(伊賀の方)が義時に盛った毒を寄越して早く殺せ……。

これは承久の乱後に捕らわれた僧侶・尊長(そんちょう)の証言。これを信じるならば、義時は正室(後室)伊賀の方によって毒殺されたことになります。

尊長は「なんでう只今しなんずる我等、などか人に被語て虚言はいはむ(意:これから死のうとする我らが、嘘偽りを言ってどうするのか)」と言い加えているものの、果たして信じていいものでしょうか。

3ページ目 病死?暗殺?義時の死因まとめ

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