各地に残る”生存説”。関ケ原の戦いに敗れた西軍の総大将・石田三成

湯本泰隆

関ケ原の戦いに敗れた西軍の総大将・石田三成は、その最期を京都の六条河原で迎えたとされています。享年41。 辞世の句は

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

三成の首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られました。

ところが、このとき処刑されたのは影武者であり、本当の三成は佐竹義宣(さたけよしのぶ)にかくまわれて秋田に逃れたという説があります。

その説によると、三成は、八幡村にある帰命寺(きみょうじ)という寺に「知恩院から招いた高僧」として住まい、真相を知っているかつての部下たちがこっそり寺を訪れ続けていたといいます。

その話はやがて、幕府の耳にも及び、佐竹家はその噂をかき消すために、帰命寺の住職は入寂したことにしたのだとか。また別の説では、徳川家康の密命によって榊原康政の舘林城にかくまわれたという話も残されています。

3ページ目 処刑後、遺児が各地で生存

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