徳川幕府の武断政治
江戸時代前期の慶安4(1651)年に起きた「慶安の変」という事件がありました。これは軍学者・由井正雪が中心となって幕府転覆計画が企てられたもので、陰謀は未然に発覚し関係者が処罰されました。
今で言えばテロ未遂事件です。
この事件が起きた背景には、江戸幕府による大名家に対するきびしい統制がありました。
当時はまだ、関ケ原の戦いの後で徳川家に服属した外様大名達が多く残っていたため、幕府はこれらの大名達が反抗しないように力で押さえ込もうとしていました。
「武家諸法度」という、大名達の行動を厳しく規定した法律を作り、少しでも違反した大名がいたら次々と改易や減封の処分を科していきました。この政治手法は武断政治と呼ばれています。
武家諸法度には、「城の修築などは一回幕府に願い出て許可をもらわなければならない」、「勝手に大名同士で婚姻してはならない」、「大名は江戸に1年おきに常駐しなければならない(参勤交代)」、などのさまざまな規定があり、これらに少しでも違反したら厳しい処分が下されました。
これにより、熊本藩の加藤忠広(加藤清正の息子)や広島藩の福島正則などの有力な外様大名が改易処分となっています。
また、末期養子(跡継ぎのいない大名が死ぬ直前に養子をもらうこと)が禁止されていたため、当主が死亡した時に跡継ぎが決まっていない場合は大名家の存続が許されていませんでした。
大名が改易されると、その大名に仕えていた武士は給料である禄(ろく)を失い浪人となってしまいます。