教養ある名将なれど悪役扱い。武将・梶原景時の不遇な最期と後世の評価【鎌倉殿の13人】

源頼朝とは良好な関係

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で中村獅童が演じる梶原景時(かじわら・かげとき)

彼は後世では悪役として語り継がれていますが、実際はどんな人だったのでしょうか?

彼は源頼朝に重用されたことで有名な人物です。しかし意外にも元々は平家方の武士でした。

石橋山の戦いで敗れた頼朝は、洞窟に身を隠していたところを景時に見つかります。自害を決めた頼朝に対して景時は、見逃す代わりに頼朝が国を治めるようになった時には借りを返すよう伝え、その洞窟を命がけで守ったという逸話が残っています。

さらに景時は和歌を好んだ教養人であることが知られており、武家百人一首に選出される腕前だったようです。頼朝は彼の教養の高さを気に入り、幕府の政治面においてとても重用されました。景時は「一の郎党」と呼ばれ、頼朝の筆頭の御家人となったのです。

源義経とは険悪な関係

このように、教養にあふれ、頼朝から重用されていた一方で、源義経とはたびたび対立しています。

屋島の平家討伐の軍議で、景時は戦いで使う船について「いざという時に後ろにも漕ぎ進められるよう、船の前方にも櫓を取り付けるべき」と主張します。

一方、義経は初めから逃げることを考える後ろ向きな姿勢を嫌い、景時の話を聞こうとしません。

結果、義経は暴風の中たった5艘の船で出航し、予定よりも早く屋島の平家討伐を完了します。万全を期した景時が到着したのは、すべてが終わったあとでした。

この時、景時は義経から「六日の菖蒲」と嘲笑されたといわれています。六日の菖蒲とは「時期が遅くては役に立たない」ことの譬えで、五月五日の端午の節句に用いる菖蒲は六日にあっても不要になってしまうことが由来です。

また壇ノ浦の戦いでは、景時は先陣を志願しました。しかし義経はこれを退け自ら先陣を切ります。総大将が先陣を切ることに反対する景時はここでも義経と対立。争いの一歩手前にまで及んでしまったようです。

3ページ目 梶原景時の不遇な最期

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