多くの人が訪れる世界的観光地京都市の中にあって、ほぼ毎年トップの来場者を誇る清水寺。清水の舞台や音羽の滝で知られ、年末の恒例となっている「世相を表す今年の漢字」が発表されるのもこのお寺です。
京都を初めて訪れる人はもちろん、京都に足しげく通う人にとっても、清水寺詣では京都観光の王道ではないでしょうか。
そんな清水寺ですが、誰が建てたお寺なのかは意外と知られていません。
今回は、清水寺の建立に深く関わった坂上田村麻呂と清水寺の縁起について、2回にわたりご紹介します。【前編】では、征夷大将軍と坂上田村麻呂についてご紹介しましょう。
坂上田村麻呂が就任した征夷大将軍とは
皆さん、征夷大将軍というと、誰を思い浮かべますか?おそらくは、鎌倉幕府を開いた源頼朝とか、江戸幕府を開いた徳川家康などが一番多いのではないでしょうか。
そもそも征夷大将軍とは、何なのでしょうか?簡単にいうと「征夷」とは「蝦夷を征討」するという意味で、その将軍が「征夷大将軍」なのです。そして、征夷大将軍は、東北を攻略するために天皇に任命された軍事指揮官でした。
後に征夷大将軍は、幕府を開く武士の棟梁に与えられる称号になります。しかし、征夷大将軍の歴史を振り返ると、それは奈良時代から平安時代初めに、中央政権である朝廷が行った蝦夷征伐に端を発するのです。
792年、桓武天皇は平安京(京都)に都を遷しました。遷都の理由は、教科書などによりますと強大化した奈良の仏教勢力と決別するためと書かれています。しかし、最も大きな目的は、停滞する律令政治の立て直しにありました。
奈良時代の終わりには、大化の改新以来進めてきた律令制の根本である公地公民制と班田収授法はすでに実態をなさなくなっており、朝廷は徐々に財政難に陥っていたのです。
そこで、朝廷が目を付けたのが、未だ中央政権の版図に含まれていない東北地方でした。東北を支配することは、新たな領土を手に入れることになります。さらに、東北には朝廷にとって大変魅力的なものがありました。
それは、金でした。奈良時代から東北では金脈が発見されており、東大寺大仏の身体を覆うために使われました。朝廷は、この金を手に入れることを一つの目的として東北攻略を進めたのです。
しかし、東北にも人間は住んでいます。東北経営は、その人々を征服しなければ成り立たなかったのです。朝廷は、東北の民を「鬼(おに)」とみなし、「蝦夷(えみし)」と呼んで卑下しました。
「東北に住む奴らは、朝廷に逆らう反逆の輩で、文化の低い野蛮人だ」
このようなレッテルを張り、蝦夷征伐は正義の戦いであることを印象付けたのでした。
朝廷は、奈良時代から、度々東北に軍を送り、多賀城をはじめとする橋頭保を築いてきました。桓武天皇は、平安京造営と蝦夷征伐を二大政策とし、東北に大軍を発したのです。
もちろん、こうした朝廷に対し東北の民達は激しく反発しました。そして、胆沢を拠点とするリーダーの阿弓流為(あてるい)とその同志である母禮(もれ)が指揮をとりはじめると、朝廷軍は大敗を喫することになったのです。
そんな状況を打開するために、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命します。これを境に、朝廷軍は蝦夷を圧倒し、東北経営を進めて行くことになります。
まずは、ここまでの歴史をお知りおきください。この経緯が、清水寺建立に深く関わっていくと思われるからです。