12歳で斬首…!滅亡した「阿蘇神社」再興の礎となった少年・阿蘇惟光

大黒柱の相次ぐ死

肥後国(熊本県)の阿蘇神社は日本で最も古い神社の一つで、現代にいたるまで「阿蘇一族」が代々の神官職を務めてきました。

 

そんな阿蘇家ですが、ある時期だけ断絶し、神社存続の危機に陥ったことがあります。そのきっかけとなったのは、戦国時代の豊臣秀吉による九州征伐でした。

今回はそんな阿蘇一族の危機と、その再興の経緯について辿ってみたいと思います。

戦国時代になると、阿蘇神社も戦国大名化していきます。そして大宮司が阿蘇惟将(あそ・これまさ)だった頃、その勢力は拡大していました。家臣の甲斐宗運(かい・なおちか)の活躍によるところが大きかったといいます。

宗運は僧籍でありながら、指揮した戦では無敗を誇るという九州有数の軍師でもありました。主家のためなら自分の一族すら誅殺する冷酷な人物でもあり、4人いた宗運の子のうち親英を除く3人が殺害されたほどです。

こうした中、1584年には阿蘇惟将が死去します。男子がいなかったため、弟の惟種(これたね)が家督を継ぎましたが、惟種もその後わずか1か月で病死。

そこで、惟種の息子の惟光(これみつ)がわずか2歳で家督を継ぐことになったのですが、その翌年には甲斐宗運も没してしまいます。

阿蘇家は正念場で大黒柱と言える存在たちが相次いで亡くなり、一門衆も家臣も失って深刻な人材不足に陥りました。家臣については宗運があまりに優秀すぎて強権化しすぎたため、次の世代が育っていなかったのです。

一応、残っていた宗運の息子・親英が後を継いでいましたが、彼の力では、当時強大化していた島津氏の侵攻を止めることはできませんでした。直接対決に挑みましたが敗戦し、島津氏に連行されてしまいます。

もはや、阿蘇氏には島津へ臣従する道しか残されていませんでした。

2ページ目 滅亡、斬首、そして…

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