源頼朝(みなもとの よりとも)公の亡き後を継ぎ、鎌倉幕府の第2代将軍となった源頼家(みなもとの よりいえ)。
偉大なる父のカリスマを乗り越えようと改革の意欲に満ちた若君でしたが、従来の慣習を無視した独裁政治は盛大に空回りしてしまいます。
その結果として有力御家人13名(鎌倉殿の13人)による合議制がしかれてしまい、覇気あふれる頼家は自分の権力を抑えつけられた(※)ことに我慢がなりません。
(※)案件ごとに数名で合議の上、最終的な裁可を鎌倉殿に仰ぐ形式をとっており、完全に蚊帳の外におかれた訳ではないものの、頼家には不満だったことでしょう。
頼家は鎌倉殿の権力を誇示するべく自分の側近に特権を与えて好き勝手に狼藉させるなど暴君ぶりを発揮していくのですが、その極めつけが「愛妾(あいしょう)略奪事件」。
あまりの事態に母・北条政子(ほうじょう まさこ)を激怒させた頼家の乱暴狼藉ぶりを、今回は紹介したいと思います。
逆ギレで兵を起こす頼家、決死の覚悟で止める政子
時は正治元年(1199年)7月、頼家は御家人の安達景盛(あだち かげもり)に命じて、三河国(現:愛知県東部)の賊徒討伐へ派遣しました。
「しめしめ、これで邪魔者はいなくなったわい」
景盛には美人と評判の愛妾(≒お気にいりのめかけ)がおり、不在の隙を狙った頼家は、特権を与えた側近たちに命じてこれを拉致させたのです。
「嫌ぁ……っ!」
「ゲヘヘ、鎌倉殿のお召しぞ。大人しうせぃ」
世に自分の妻を奪われて怒らない夫はいないもので、8月18日に任務から帰投した景盛はこれを激怒。頼家はこれを「謀叛の企み」として8月19日、側近たちに景盛討伐を命じます。
完全に逆ギレですが、鎌倉殿の命令とあれば逆らう訳にもいかず、にわかに鎌倉じゅうが一触即発の臨戦状態に陥りました。
「……我が子ながら、育て方を間違えてしまったのでしょうか……」