現在の呼び名は「島原・天草一揆」
1637年に発生し、幕末以前では日本史上最大規模の内戦とされる「島原の乱」。
これは最近は「島原・天草一揆」と呼ばれています。その理由は、当時蜂起したのが肥前国の「島原」と、同じく肥前国「天草」の2つの地域の人々だったからです。だから「島原・天草」なんですね。
もう少し説明しましょう。この乱が起きた原因は、当時の島原藩主だった松倉親子の悪政にありました。同藩は戦国時代までは有馬晴信というキリシタン大名によって治められていたのですが1614年に転封し、かわりに松倉重政という大名がやってきたのです。
この松倉重政がとんでもない人物で、4万石の大名にも関わらず朱印船貿易に手を出す、島原城を改築する、徳川家へのおべっか使いで江戸城の普請を手伝うなど身の丈に合わないことばかり行います。で、農民たちはそのしわ寄せを受けて重税に苦しむ羽目になりました。
重政の死後に後を継いだ息子・松倉勝家は父親に輪をかけたひどさで、石高を偽って農民から過酷な搾取を行います。拷問もお手の物でした。
そして島原の乱といえばキリシタン弾圧です。松倉家は親子そろってこの弾圧政策に精を出し、年貢を納められない農民たちとキリスト教徒たちに拷問と虐殺を繰り返します。
たまりかねて農民たちは蜂起します。これが「島原・天草一揆」です。ここまでの内容を見れば分かりますが、この蜂起は今までよく言われてきたようにキリスト教徒が主体だったのではなく、圧制に苦しめられた農民たちによる一揆だったのです。