裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った武将たちのその後を一挙まとめ!【西軍編】

拾丸

慶長5年(1600)に起きた「関ヶ原の戦い」。徳川家康と石田三成が戦った天下分け目の戦いは、西軍の裏切りによって半日で決着がつきました。

もちろん、小西行長大谷吉継などの西軍の武将たちは討ち死にや斬首といった形で処刑されましたが、裏切った武将たちは関ヶ原の戦い後、どうなったのでしょうか。

今回は天下を2分した関ヶ原の戦いの中で、関ヶ原の戦い本戦において小早川秀秋吉川広家をはじめとした西軍を裏切った武将たち6人のその後に迫っていきたいと思います。

西軍の武将たちが寝返るきっかけとなった小早川秀秋

まずはじめは小早川秀秋です。

関ヶ原の戦いで秀秋は1万5000の兵を率い、松尾山に布陣していました。ほぼ主力に近い数の兵を従えていましたが、知っての通り秀秋は西軍から東軍へ離反。

これにより有利だった西軍は総崩れとなり、東軍の勝利で幕を閉じました。
関ヶ原の戦いで東軍勝利に一役買った秀秋は、その戦果として宇喜多秀家が所有していた岡山領55万石を加増されました。

しかし、秀秋は慶長7年(1602)に急死。秀秋の養子先だった小早川家は後継ぎがいなかったことにより、断絶しました。また有していた土地も改易となりました。

訳アリで東軍に参加できなかった脇坂安治

2人目は脇坂安治です。

安治は関ヶ原の戦い前に徳川家康率いる東軍に加担する内容の書状を送り、家康もそれを理解していました。しかし、石田三成が挙兵したため、大坂にいた安治はやむを得ず西軍として戦いに参加しました。

戦いの最中、秀秋が東軍に寝返ったことを機に安治も離反。戸田勝成の部隊を壊滅させました。

戦後は事前に家康の味方することを書状で述べていたことを配慮し、お咎めなく所領安堵。その後は元和元年(1615)に家督を次男に譲り、寛永3年(1626)に病死しました。

2ページ目 織田信長を助けたことのある朽木元綱

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了