源氏再興の志半ばに…平安末期、兄・源頼朝との再会を果たせず散った源希義の悲劇

時は平安末期の治承4年(1180年)、20年の雌伏を経て、源頼朝(みなもとの よりとも)公が平家討伐の兵を挙げました。

「今こそ、源氏を再興すべし!」

当時、各地に散らばっていた頼朝公の弟たちもこれに呼応、こと異母弟の源範頼(のりより)や源義経(よしつね)らの活躍(そして悲劇)は有名ですね。

一方、頼朝公の弟として決起したものの、その志を遂げることなく討たれてしまった者もいました。今回はそんな一人、源希義(みなもとの まれよし)のエピソードを紹介したいと思います。

遠く土佐国へ流されて……

源希義は仁平2年(1152年)、源義朝(よしとも)の五男として誕生しました。母親は頼朝公と同じ由良御前(ゆらごぜん。熱田神宮宮司の娘)です。

平治元年(1160年)に勃発した平治の乱に敗れた父や長兄・源義平(よしひら)たちが処刑・暗殺されると、当時9歳だった希義は土佐国介良(けら。現:高知県高知市)へ流罪とされました。

兄・頼朝公(当時14歳)はご存じ伊豆国蛭島(現:静岡県伊豆の国市)へ流されましたが、同じ母親の血肉を分けた兄弟同士、これが最期の別れとなってしまいます。

「兄上……っ!」

元服してからは「土佐冠者(とさのかじゃ。冠者は成人男子の意)」「介良冠者」などと呼ばれながら、現地で歳月を送りました。

この期間については頼朝公と同じく伝承の域を出ませんが、土豪の夜須七郎行宗(やす しちろうゆきむね)から支援を受けながら、琳猷上人(りんゆうしょうにん)を師として父の菩提を弔う日々を送っていたそうです。

2ページ目 魂となって兄と再会?

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了