大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】

前編のあらすじ

時は幕末、上総国請西藩主であった林忠崇(はやし ただたか)戊辰戦争に身を投じるべく、藩主の地位も身分も捨てて脱藩。旧幕府軍の遊撃隊(ゆうげきたい)に属して薩長の新政府軍と戦います。

しかし各地を転戦するうち、守るべき主君・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の安全が保証されたため、戦う目的を失った忠崇は新政府軍に投降

果たして、忠崇の運命やいかに……?

前回の記事

藩主なのに脱藩して戊辰戦争を闘い抜いた「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【前編】

時は幕末、日本国の未来を切り拓こうと多くの志士たちが脱藩して各地を東奔西走しましたが、その中に「藩主(大名)」がいたと聞いたら、どう思うでしょうか。「自分の治めている藩をわざわざ脱しなくても、…

武士の誇りを奪われ、職を転々とする屈従の日々

「予初メ一統、縲絏(るいせつ)ノ辱ハ素ヨリ覚悟ノ事トイヘトモ、弥、刀ヲ脱スルニ臨ンテ、其心中イハンカタナシ」
※『一夢林翁手稿戊辰出陣記』

【意訳】我らはみな、捕虜となる(縄に縛られ、投獄される)恥辱は覚悟していたが、いやそれにしても、いざ刀を奪われると、武士として言葉に尽くせぬ辛さである。

捕虜となった忠崇は江戸に護送された後、親戚に当たる唐津藩(現:佐賀県唐津市)の小笠原家に身柄を預けられました。

賊将として死罪は免れたものの、これまで苦楽を共に闘い抜いた元藩士ら19名とは離れ離れにされてしまいます(彼らは名古屋藩の預かり)。

一方、請西藩は改易(かいえき。領土を全没収)されてしまい、藩主の林忠弘(ただひろ。忠崇の弟?従弟?など諸説あり)は東京府士族として300石で召し抱えられましたが、藩として抵抗していなかったにも関わらず1万石から300石の97%減とは、あまりに酷い仕打ち。

これが戊辰戦争において唯一の改易案件となったのでした(あれほど頑強に抵抗した会津藩などでも、藩自体を取り潰されてはいません)。

「いかに徳川家のためとは言え、皆には申し訳ないことをした……」

結局、自由の身となったのは3年以上の歳月を経た明治5年(1872年)1月。さぁ、これからどうしよう……忠崇は旧領の請西に帰って、農民となることを決断します。

「いやいや……いくら何でもお立場がお立場にございますれば、もそっとマシな職業を……」

「いや、まずは帰って皆に謝らねばならぬ。地元に仕官のクチがない以上、帰農するよりあるまい」

かつて神君・徳川家康(いえやす)が人質にとられていた幼少期、その帰りを待つ忠臣たちは汗水流して野良仕事に励んだと言うではないか。

主君のために振るうなら、刀も鍬も同じこと……とまぁ、そんな思いで農業を始めたはいいものの、やはり素人がいきなり始めて上手くいくものでもありません。

「やはり『餅は餅屋』じゃのう……」

どうにもならないので明治6年(1873年)12月、東京府知事を務めていた大久保一翁(おおくぼ いちおう。旧幕閣)のつてで、東京府の役人に採用してもらいました。

「元藩主殿に対して、あまりよい待遇も提供でき申さぬが……我らも肩身の狭きゆえ、どうかご辛抱されたい」

「いえいえ、大久保殿のご厚意まことに忝(かたじけの)うございまする……」

しかし、忠崇の待遇は十等属という最下級クラス。おまけに旧賊軍、しかも大名から小役人への転落とあって、周囲からイジメに遭ったことは想像に難くありません。

「おのれ、昔は昔、今は力を合わせて日本国のために奉仕する仲間ではないのか……!」

そして明治8年(1875年)、権知事(副知事)の楠本正隆(くすもと まさたか)と衝突。楠本は大村藩(現:長崎県大村市)の出身で、戊辰戦争においては遊撃隊と激しく戦った因縁がありました。

「この負け犬めが、朝敵の分際で人並みのクチを利くでないわ!」

「貴様、いつまで左様なことを……!」

侮辱に耐えかねて職を辞した忠崇は、今度は一念発起して箱館(現:北海道函館市)に渡り、豪商・仲栄助(なか えいすけ)の番頭となります。

「かつては渡航をやめた蝦夷地に行くこととなるとは……人生は実にわからんものじゃなぁ……」

しかし人生とは本当にわからないもので、その栄助も数年で破産してしまい、今度は神奈川県高座郡入谷村(現:座間市)にある龍源院(現存)へ転がり込みました。

「当時の忠崇は植木屋の親方とか、寺男とかの名目で住込んでいながら、別に仕事をするでもなく近所の人々とも殆んど接触せず、身分姓名は一切極秘で彼を招いた山口曹参住職夫人さへ知らなかったという。ただ絵をたしなんで時折近隣の人々に描き与えていた様だが、現在は寺の遺品を除いて全く残っていない」

※『かながわ風土記』第97号「かながわの社寺縁起夜話 座間 竜源院物語 最後の大名林忠崇」より

どうやら忠崇には絵画の嗜みがあったようで、時おり達筆を振るっていたそうです。

刀を振るい、鍬を振るい、そして絵筆を振るう……実に多彩な人生ですが、器用貧乏な印象も否めませんね。

そんなこんなで明治13年(1880年)、今度は大阪府で書記官を勤めますが、ここは薄給の上に多忙を極め、加えてイジメもあったようで旧臣の広部精(ひろべ せい)に就職の世話をして欲しいと書状で訴えます。

「あぁ若君(もうそんな歳でもないけど)、おいたわしや……」

お労しいという言葉がこれほど似合う状況もそうそうないでしょうが、忠崇の窮状に胸を痛めた広部は、一念発起して林家の御家再興運動を開始するのでした。

2ページ目 苦節の末に御家再興を果たすも、妻と死別

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