ザシュ(斬る音)「ぐぅ……っ」ドサッ(倒れる音)
よく時代劇などで見かける、刀で斬られた者がほぼ即死する光景。放送時間の都合で仕方ないとは言うものの、良くも悪くも、人間あぁまでアッサリとは死にません(死ねません)。
たとえ致命傷であっても、意識が途切れてしまうまでにそれなりの猶予があるので、敵わぬまでもせめて反撃を試みるのが武士というもの。
それどころか「たとえ首を斬り落とされても、死ぬまでの僅かな間に一働きできるはず」と主張しているのが、武士道のバイブルとして有名な『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』。
本当にそんなことができたのか、さっそく『葉隠』の口述者・山本常朝(やまもと じょうちょう)の話を聞いてみましょう。
首を斬られても死なない?
五二 出し抜きに首打ち落とされても、一働きはしかと成る筈に候。義貞の最期證據なり。心かひなく候て、その儘打ち倒ると相見え候。大野道賢が働きなどは近き事なり。これは何かする事と思ふぞ只一念なり。武勇の爲、怨霊悪鬼とならんと大悪念を起したらば、首の落ちたるとて、死ぬ筈にてはなし。
※『葉隠』巻第二より
【意訳】いきなり首を斬り落とされても、息絶える前にワンアクションくらいは何かできるはずである。
新田義貞(にった よしさだ)の最期がその証拠である(ただし、執念の甲斐なくそのまま倒れてしまったが)。また似たような事例として、大野道賢(おおの どうけん)のエピソードもある。
これらは「ただで死んでなるものか」という執念の賜物である。武士たる使命を果たすため、怨霊にも悪鬼にもなってやるとの決心があれば、首が落ちたくらいで死ぬはずはないのである。
……「そんな無茶な」とツッコミを入れずにはいられませんが、実際のところ例に挙がった新田義貞と大野道賢はどんな最期を遂げたのでしょうか。