みなさんは、「細川ガラシャ」という名前を聞いたことがありますか?日本史上で、カタカナの名前というのはめずらしいので、名前だけは憶えているという方も多いかもしれません。
しかし、実際に彼女がどんな人物で、どんな人生を送ったかということは知らないかもしれません。
そこで今回の記事では、そんな細川ガラシャについてご紹介したいと思います。
父は戦国時代の有名人!細川ガラシャってどんな人?
細川ガラシャというインパクトの強い名前ですが、彼女の生まれた時に名付けられた名前は、「明智玉(あけち たま)」。玉だけでなく、「玉子(たまこ)」という説もあります。
苗字でピンとくるかもしれませんが、彼女の父は、戦国時代のかの有名人・明智光秀。越前の国で、彼と妻の煕子(ひろこ)とのあいだに三女として生まれました。
天正6年(1578年)に15歳と言う年齢で、細川藤孝の息子・細川忠興に嫁ぎました。その翌年、二人のあいだには長女が、そしてその次の年には長男である細川忠隆が生まれました。
本能寺の変で状況が一変
細川ガラシャと細川忠興は、二人とも容姿が美しく、お似合いの夫婦と言われていました。ちなみに彼女は、戦国時代でもトップを争う美人ぶり。聡明で才色兼備の女性でした。
嫉妬・束縛・幽閉…。戦国一のヤンデレ夫、細川忠興の愛が重すぎて重すぎて。
順調に思えた二人の結婚生活でしたが、天正10年(1582年)の「本能寺の変」で彼女の状況は一変します。謀反を起こした明智光秀は細川藤孝・忠興に支援を求めますが、彼らは応じず。ガラシャは、「謀反人の娘」となってしまいました。
忠興はガラシャと離縁し、彼女を丹後・味土野女城(現在の京丹後市弥栄町須川付)に幽閉しました。2年後、豊臣秀吉によって幽閉は解かれましたが、行動の制限などはその後も続きました。