「日本海海戦でロシア艦隊を破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」
このように語ったのは、日露戦争で、当時、世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎(とうごうへいはちろう)連合艦隊司令長官です。東郷平八郎は、明治45年(1912)、小栗上野介忠順(以下小栗忠順)の子孫・又一を自邸に招待した際に、小栗忠順が横須賀造船所を造ったことに多大な感謝の意を示したと言います。
東郷平八郎の言葉が示している通り、横須賀造船所は明治時代の日本海軍の発展に大きく貢献しました。幕末に「幕府史上最大」の国家プロジェクトとして計画された「横須賀造船所」は、当時の日本の行く末を案じる小栗忠順の強い思いを持って誕生することになります。
…話は、日露戦争からおよそ40年余遡ります。安政7年(1860)に幕府は遣米使節団を出していますが、その中に小栗忠順がいました。一団はフィラデルフィアでの日米修好通商条約の見直し交渉をした後、アメリカ各所を歴訪します。ワシントン海軍工廠(造船所)を見学した小栗忠順は、そのダイナミックな規模を持つ工場に衝撃を受けます。
その際に記念としてネジを持ち帰っていますが、これがその後の日本の運命に大きく影響を与えることになります。
帰国後、日本とアメリカとの差をまざまざと見せつけられた小栗忠順は、日本にもワシントン海軍工廠にも負けない造船所を造ることを計画します。しかし、財政難に喘いでいた幕府の懐には、そのような大それたプロジェクトを動かすだけの財力がなく、当初は小栗忠順のアイデアを前向きに受け止める者がいませんでした。
そこで、小栗忠順は…
「幕府の運命に限りあるが、日本の運命には限りがない。私は幕臣である以上、幕府の為に尽力しなければならないが、それも結局は日本の為。幕府のしたことが長く日本の為となり、徳川の仕事のおかげだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にしても土蔵付き売据えの方がよい」
と説得をしたと言います。小栗忠順が徳川家や日本のことを強く思っていることがわかる件ですが、その中で私が強く感じたのは「日本」という国家を一つの「家」と表現している点です。
これは「日本の主が徳川家から別の者に変わったとしても、その家には新しい主が住む。だから、より良い家財を残しておくべき」と解釈できますが、一方で、「その『家』に暮らすのは国民であり、その国民にとって不自由のしない家を造るべき」と取ることもできるのではないかと思います。
現に、小栗忠順は造船所の他にも、諸外国の語学学校や日本発のホテル「築地ホテル」にも携わっています。後の近代日本が示したビジョンは、この時の小栗忠順の影響を受けていると言っても過言ではないでしょう。