基本、ノーパンあたりまえ!?平安時代の意外と知られていない下着事情

雲川ゆず

突然ですが、みなさんは、「下着」の歴史をご存じですか?十二単など、きれいな衣服が見られた平安時代ですが、その「下着事情」は意外と知られていないのではないでしょうか?

今回の記事では、そんな平安時代の下着についてご紹介します!なお、この記事では上半身用の下着(肌着)ではなく、下半身用の下着(いわゆる、現代でいうパンツにあたるもの)についてご紹介したいと思います。

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平安時代、女性の下着事情は?

現代のように、服(着物)の下に肌着を身に付けるという習慣は、江戸時代ごろから始まったとされています。

平安時代、宮中で働く女官たちは、白い巻きスカートのような「湯巻」というものを腰に巻いていました。これは、着ている服が湯によって汚れてしまうのを防ぐ役割があったといいます。

なお、この白い腰巻は、室町時代には公家の女性たちにとって、日常的に着るものとなっていきました。

また、高貴な女性は十二単にあうようなものとして、「袴」を着用していたそうです。これも身体にフィットするものではないため、現代の下着の感覚とは違うことが分かります。

平安時代、男性の下着事情は?

身分が高い男性は「大口」と呼ばれるものを身につけていました。大口は、現在で言う「トランクス」に近いものでしたが、丈がとても長く、十分丈くらいだったといわれています。

そして、丈が長く足元まで及ぶため、表袴(現在のズボンに相当)の裾からはみ出て見えるように着ていたそうです。これは、当時「風流」であり、彼らにとってはおしゃれだったとされています。

そして、公用服である束帯では、大口は赤色に限定されていたといわれています。現代の感覚からすると、赤い下着を見せながら履く、というのはちょっとびっくりですよね!

3ページ目 平安時代、「ふんどし」はあったのか?

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