戦国時代、特に北条(ほうじょう。後北条)氏ファンで、足利茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)という名前を知らない人は少ないでしょう。
北条氏の初代・伊勢宗瑞(いせ そうずい。後の北条早雲)が関東地方へ進出する足がかりとしてごく初期に撃ち破った大名の一人で、宗瑞の梟雄ぶりを引き立てるためもあってか、暗愚な公家かぶれキャラに描かれがちです。
事実、彼は足利将軍家の一族であり、元服しておらず「茶々丸」という麿っぽい幼名も、そのイメージを助長しているのでしょう。
しかし、敗れ去ったとは言えこの足利茶々丸はかなりの武闘派であり、その人生を辿ってみると決して暗愚なばかりでもなかったようです。
今回はそんな足利茶々丸の人生を調べたので、紹介したいと思います。
堀越公方の嫡男として誕生
足利茶々丸は戦国時代初期の文明年間(1469年~1487年)の誕生とされますが、すぐ下の弟・足利義澄(よしずみ。後の第11代将軍)が文明12年(1481年)に生まれているため、文明11年(1480年)以前に生まれたものと考えられます。
また、亡くなった明応7年(1498年)の時点でまだ元服していなかったことを考えると、20歳を大幅に過ぎていたとは考えにくく、恐らく文明10年(1479年)ごろの生まれと考えるのが自然でしょう。
そんな茶々丸の父・足利政知(まさとも)は第6代将軍・足利義教(よしのり)の四男で、長禄2年(1458年)に鎌倉公方(名目的な東国の支配者)として京都から下向。
しかし関東の兵乱や諸勢力の妨害によって鎌倉府に入れず、伊豆国の堀越(ほりごえ)に留まったことから、堀越公方と呼ばれます。
堀越の地から鎌倉ひいては関東制覇の野心を燃やす中、茶々丸の弟たちが生まれました。
次男は足利義澄、三男は足利潤童子(じゅんどうじ)。彼らは後室(※)の子で、これが後にトラブルの因になります。
(※)武者小路隆光(むしゃのこうじ たかみつ)の娘で、政知の死後出家して円満院(えんまんいん)と称しました。ここでは円満院で統一。