前編では真田十勇士について、十勇士の5人猿飛佐助、三好清海入道、三好伊佐入道、穴山小助、由利鎌之介を紹介しました。
後編では、残りの5人霧隠才蔵、根津甚八、筧十蔵、海野六郎、望月六郎の人物像やモデルを紹介します。
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真田十勇士とは?戦国武将・真田幸村を支えた10人の凄腕家臣達【前編】
霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)
真田十勇士の中でも名前がよく知られた霧隠才蔵。猿飛佐助のライバル的な存在で、忍術勝負を繰り広げた後、真田幸村の家臣となります。もともとは浅井長政の侍大将の遺児で、浅井滅亡後に伊賀で忍術を学んでいます。
伊賀忍者の頭領百地三太夫(ももちさんだゆう)に忍術の極意を授けられました。盗賊の石川五右衛門は兄弟弟子です。霧隠才蔵は名前の通り、目くらましの術が得意で隠密活動に秀でた忍者でした。
無口でクールなイメージで描かれており、人気も高く主役となることも。大坂夏の陣では、徳川家康の首をとるのにあと一歩で失敗。しかしその後、豊臣秀頼の脱出を成功させました。
モデルは出浦昌相(いでうらもりきよ:真田家の忍者の棟梁)や霧隠鹿右衛門(きりがくれしかえもん:真田幸村直属忍者と言われています)です。しかし霧隠鹿右衛門は「真田三代記」にしか登場しないため、実在の信ぴょう性が疑問視されています。
根津甚八(ねずじんぱち)
根津甚八と聞くと、俳優さんの名前を思い浮かべる方も多いでしょう。もちろん名前の由来は十勇士の根津甚八です。そのため、名前は多くの方に知られています。
根津甚八は、海賊の頭領でした。真田幸村が秀吉の人質だったころに熊野灘で出会い家臣になったのです。海賊の頭領だったため、水軍の指揮に長けていました。筧十蔵が根津甚八に世話になって、義兄弟の契りを結んでいます。
関ケ原の戦いや大阪冬の陣・夏の陣では幸村の影武者となって獅子奮迅の働きを見せましたが、大坂夏の陣で穴山小助とともに壮絶な討ち死にしています。
根津甚八のモデルは、真田家の実在武将の禰津小六(ねずころく)。しかし、別のモデルで浅井長政の養子の浅井井頼(あざいいより)との説もあります。浅井井頼は、大坂夏の陣で大阪城二の丸を死守して討ち死にした武将です。
筧十蔵(かけいじゅうぞう)
筧十蔵は、元は豊臣の譜代である蜂須賀家(はちすかけ)の家臣でしたが、真田幸村に心惹かれて家臣となりました。小姓から幸村に仕えていたため、家臣としては最古参の一人です。
使う武器は種子島銃で、十勇士の中では異色。
性格は豪胆で真田幸村の信頼も厚く、狙撃隊隊長の任を担っていました。大坂夏の陣でももちろん大活躍しましたが、敗走の後幸村とともに薩摩落ちしています。
筧十蔵のモデルは、実在の人物で真田幸村に仕えていた小姓の筧十兵衛(かけいじゅうべえ)です。