太平の世となった江戸時代は、戦国のような大名同士の戦こそなくなったものの、小さな小競り合いや悶着は頻発した。中には事件や事故に巻き込まれ、不幸というほかない最後を遂げた人物も存在した。
今回は【前編】につづき、江戸中期に些細な勘違いから起きてしまった殺傷事件をご紹介する。
前回の記事
なんともマヌケな人違いで起きた、江戸中期の熊本藩主 殺害事件の悲劇【前編】
太平の世となった江戸時代は、戦国のような大名同士の戦こそなくなったものの、小さな小競り合いや悶着は頻発した。中には事件や事故に巻き込まれ、不幸というほかない最後を遂げた人物も存在した。今回は、…
事件の動機
【前編】の通り、勝該の素行の悪さに家の将来を危惧した主家の板垣勝清は、勝該を引退させ、自身の庶子に跡を継がせようと画策したとされる。
この事が勝該の耳に入り、生来の狂気的傾向も後押しして、自身の跡目相続を阻もうとする勝清を亡き者にしようと強行に及んだ事が動機とされる。勝該の標的は勝清であった。
ではなぜ、関係のない細川宗孝を殺害してしまったのか?
勘違いが招いた誤認殺人
そこには細川家と板倉家が用いていた「家紋」に原因があったとされる。細川家の家紋は「九曜紋(くようもん)」といい、一個の円の周囲に八個の小円を配したデザインになっていた。
対して、板倉家の家紋は「九曜巴紋(くようともえもん)」といい、同じ九曜でありながら、円の中に「ともえ(勾玉)」が配されたデザインだった。両家の家紋は類似しており、疑念に駆られ冷静さを欠いた勝該は、細川家の家紋を板倉家のものと勘違いし、宗孝を誤殺してしまった。
細川家断絶の危機とお家存続
当時の慣しでは、殿中での刃傷事件は両成敗が原則であり、当主を失った細川家には改易の可能性があった。
事件の場に居合わせた陸奥国仙台藩の第6代藩主・伊達宗村は、細川家の家臣に宗孝の息があることにして、末期養子をたてることをとっさに助言。弟の重賢(しげかた)を次代当主にすえることに成功し、事なきを得た。
勝該が事件を起こした動機には異説も存在し、本当に宗孝を狙ったという説もあるが、真実は定かでない。