令和3年(2021年)現在、好評放送中の大河ドラマ「青天を衝け」。
後世「日本実業界の父」として偉大な功績を残した渋沢栄一(しぶさわ えいいち)の生涯を描く大作ですが、現在は青年期の活躍が演じられています。
さて、栄一の家は「中の家(なかんち)」と呼ばれ、近所に住む親戚たちの家はそれぞれ、伯父・渋沢宗助夫婦の「東の家(ひがしんち)」、従兄・渋沢喜作夫婦の「新屋敷(しんやしき)」と呼ばれています。
これは屋号(やごう)と言い、江戸時代における庶民の知恵とも言える習慣でしたが、その発生には江戸時代ならではの事情がありました。
江戸時代の知恵・屋号
歴史の授業でも「苗字帯刀(みょうじたいとう)」などと習った通り、江戸時代において庶民が公的に苗字を名乗ることは許されておらず(私的にはOKでした)、原則的には「栄一」「喜作」などと呼び合うのですが、人が多くなってくると、名前がかぶってしまいがちです。
例:「もしもし、太兵衛さんにお届けものがございます」
「太兵衛ったってウチの村には8人いるんだが、どの太兵衛だね」
もっとも、現代でも地方によっては「この集落一帯、みんな『鈴木』さん」なんてことも珍しくなく、どのみち苗字よりも具体的に「どの家」の者かを示す必要がありました。
そこで生まれたのが「屋号」。家のある場所(例:川向こう)や近くの特徴物(例:柿の木)、分家を興した初代の名前(例:久兵衛)など、さまざまな工夫をもって呼び交わされたようです。
そもそも、苗字にしても氏(うじ。本姓)が源平藤橘(げんぺいとうきつ。源氏・平氏・藤原氏・橘氏)でほぼ占められてしまったため、各家や個人を識別するために生まれたものですから、苗字から屋号が生まれたことは、一族の更なる発展を意味しています。
現代でも折々の場面で屋号が使われることがあるので、気にしてみると楽しいですよ。