古来「名は体を表す」と言うように、ネーミングというものは商品の売れ行きや人物の印象など、よくも悪くもモノゴトに大きな影響を与えます。
だから少しでもよい名前をつけたいと思うのが親心ですが、何でも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」で、あまりに立派過ぎる名前だと、気後れしてしまう「名前負け」が心配です。
とは言え、慎ましい名前なら万事うまくいくのかと言えば必ずしもそうではなく、結局は名前以上に当人の努力と心意気しだいでどうとでもなるもの。
そこで今回は、幕末から昭和まで激動の時代を駆け抜け「アジアの巨人」と畏怖された頭山満(とうやま みつる)のエピソードを紹介したいと思います。
11歳の乙次郎、源為朝にあやかって「八郎」と改名
頭山満は江戸時代末期の安政2年(1855年)4月12日、福岡藩士・筒井亀策(つつい かめさく)の三男として生まれました。
幼名は乙次郎(おとじろう)、自由奔放を絵に描いたようなガキ大将で、度外れた振る舞いの数々に、早くも非凡さを現わしていたそうです。
そんな乙次郎が11歳となった慶応元年(1865年)、思い立って生家の庭にクスノキを植えます。
「俺も楠正成(くすのき まさしげ)のような英雄になりたい。クスノキよ、どうか俺の努力を見ていてくれ。もしも俺がつまらぬ人間に成り下がってしまったら、その時は枯れて俺を戒めて欲しい」
決意と共に植えられたクスノキはすくすくと成長し、令和21世紀の現代も生家跡(現:福岡市早良区)に大きな枝葉を広げていますが、それはまた別の話。
さて、決意表明を周囲に示すため、乙次郎は自分の意思で「八郎(はちろう)」と改名しました。
「乙さん、その名はどういう意味ね?」
八郎とは平安時代末期の武士・源為朝(みなもとの ためとも)の通称であり、わずか15歳の若さで九州を平定したことから鎮西八郎(ちんぜいはちろう)の二つ名で恐れられた豪傑。
天下一の強弓として武勇を轟かせた為朝ですが、生来の叛逆気質ゆえか、その弓は常に強い者に対して(弱い者を守るために)引いたと言われています。
「弱きを助けて強きをくじく天下無双の男に、俺もなりたいものだ!」
自分の意思で名前を変える(そしてそれを、両親はじめ周囲に認めさせる)というだけでもすごいのに、シンプルながら気宇壮大なチョイスにも、只者ならなさを感じますね。
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