怨霊と恐れられた菅原道真が「学問の神」へと神格化。人々に祀られるようになったわけ【前編】

高野晃彰

菅原道真といえば、今や受験生の心の拠り所「学問の神」「天神さん」として、はば広い世代の人にその名を知られています。

しかしながら、菅原道真は死後、時の権力者たちが震え上がるほどの「怨霊」として恐れられていたのです。そして、現在でも、日本三大怨霊の一人としてその名を連ねています。

しかし、それほど恐ろしい怨霊が、なぜ学問の神・受験の神さまとして、人々から厚い信仰を集め親しまれるようになったのでしょう。

その経緯を探ってみました。

幼い頃から才能に溢れていた道真

菅原道真は、幼少の頃から詩歌の才能を発揮していました。11歳で初めて漢詩を詠み、18歳で文章生(律令制の大学寮で歴史や詩文を専攻する学生)の試験にも合格。

その中から特別に優秀な2人が選出される文章得業生となり、その後は学者として最高の位・文章博士にも就きました。

40代前には、菅原家私塾の主宰となります。こうして道真は押しも押されぬ、朝廷における文人社会の中心人物となったのです。

その才能ゆえ罠に嵌められ左遷される

文人として才能に溢れていた菅原道真は、政治の才覚にも優れ大活躍します。

もともと中級貴族の学者の家柄であった道真ですが、その才能ゆえ、時の帝・宇多天皇の寵愛を受け異例の出世を遂げたのです。

それは、当時、勢力を誇っていた藤原氏に対抗させるための、宇多天皇の手段であったともいわれています。

右大臣となった菅原道真ですが、この異例の出世が多くの貴族達の嫉妬と反発を買うこととなったのです。

その動きを、絶好の機会としたのがライバルの藤原時平。

宇多天皇の第一皇子である醍醐天皇に、「道真が謀反を企み、あなたではなく自分の義理の息子・斉世親王を天皇にしようとしている」と、根拠のないことを吹き込みました。

それを信じてしまった醍醐天皇は、無実の道真を九州の太宰府に左遷してしまうのです。

3ページ目 無念のまま太宰府で亡くなった道眞

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