戦国時代。織田信長の家臣であった摂津国の「荒木村重(あらきむらしげ)」は、突如として信長に反旗を翻し居城である有岡城に籠城する。信長によって兵糧攻めを受けた有岡城は長い籠城生活を強いられる事となった。
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人質約700名の命と引き換えに逃亡。信長を裏切った戦国大名「荒木村重」【前編】
下克上や謀反が相次いだ戦国時代。巻き込まれた一族や関係者は見せしめに命を奪われることも珍しくなかった。戦国武将・織田信長に仕えた大名「荒木村重(あらきむらしげ)」も主君を裏切った男の1人だ。村重の裏切…
開城
1579年9月。有岡城で籠城中の村重は、わずかな側近と共に城を脱出。長男の村次が守る尼崎城へ移ってしまう。村重の逃亡は数日のうちに間者(スパイ)によって織田方に知れ渡り、織田軍は本格的な調略作戦を開始した。
10月。織田軍は有岡城を総攻撃。残された家臣たちは村重に変わって城守をしていた「池田知正」を中心に奮戦するも、織田方に寝返った兵の影響もあり11月に開城となった。
信長は講和を持ちかけ「居城する尼崎城と西方の花隈城の明け渡すならば、家族や家臣の命は助ける」という条件を村重に提示し、返答を待った。
村重と知正の逃亡
尼崎城に籠る村重は信長の提案を拒否。尼崎城から脱出し花隈城へ籠城する。さらに、家臣代表として信長の講和条件を伝えた知正は、交渉が決裂したことによる保身のためから逃走してしまう。
講和交渉が決裂したことを受け、信長は村重や知正への見せしめのために人質の処刑を決定した。