下克上や謀反が相次いだ戦国時代。巻き込まれた一族や関係者は見せしめに命を奪われることも珍しくなかった。戦国武将・織田信長に仕えた大名「荒木村重(あらきむらしげ)」も主君を裏切った男の1人だ。村重の裏切りによって700名近い関係者が処刑されたという。
今回は、悲劇的な結末を迎えた荒木村重の謀反事件についてご紹介する。
荒木村重とは
1535年に摂津国(現在の大阪府北部)に生まれる。摂津池田氏に仕えたが、1571年に主君に反旗を翻す形で起こした「白井河原の戦い」をきっかけに織田信長の家臣となった。
信長と室町幕府15代将軍「足利義昭」の対立中も信長方として活躍した。摂津国内の有力な国人を滅ぼした結果、摂津一国を任されるに至る。
村重は伊丹氏から奪った伊丹城を「有岡城」と改称。摂津に有岡城を中心とした新たな支配体制の基盤を築き上げ、信長から摂津守護に任じられる。
突然の裏切り
1578年。播磨国(現在の兵庫県)征伐に加わっていた村重は、突如として信長に反旗を翻し戦線を離脱してしまう。
村重を評価していた信長は謀反の事実に驚き、事態の真相を究明するために明智光秀など数名の使者を送っている。しかし、村重は反信長を主張する家臣からの説得もあり、反旗の意思を崩さなかった。
信長はその後も使者を遣わせ、村重に翻意を迫るが交渉は決裂。播磨国侵攻を任されていた羽柴秀吉の家臣で、村重と関係性の深かった黒田官兵衛は単身で説得に向かうが、村重は官兵衛を監禁し居城である有岡城に籠城した。