百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【下】

これまでのあらすじ

戦国時代、近江国(現:滋賀県)で百姓の倅として生まれた久兵衛(きゅうべゑ)は、元服して田中宗政(たなか むねまさ)と称し、地元の領主である宮部継潤(みやべ けいじゅん)の婿養子となります。

やがて近江国へ進攻してきた羽柴秀吉(はしば ひでよし。後の豊臣秀吉)に仕えて各地を転戦、数々の武功によって5,000石の領主に出世、秀吉から甥・羽柴秀次(ひでつぐ)の補佐役に抜擢されました。

若い頃から気さくな性格と熱心さで民衆や神様に愛されてきた久兵衛は、秀次が近江八幡43万国の大大名となった天正十三1585年、その筆頭家老として大いに政治手腕を発揮するのでした。

これまでの記事

百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【上】

戦国時代と言えば下剋上の嵐が吹き荒れ、実力しだいで立身出世も夢ではなかったイメージですが、活躍したのは元から武士身分だった者が多く、天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のように、百姓など低…

百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【中】

前回のあらすじ戦国時代、近江国(現:滋賀県)で百姓の子として生まれた久兵衛(きゅうべゑ)こと田中宗政(たなか むねまさ。後の田中吉政)は、地元の領主・宮部継潤(みやべ けいじゅん)に仕えます。…

秀次を励まし、武功を立てて城持ち大名に

「御屋形様……?」

久兵衛は近江八幡(現:滋賀県近江八幡市)に赴任してからというもの、旧主・織田信長(おだ のぶなが)がその栄華を誇った安土城(あづちじょう)を八幡山に移築。後に八幡山城(はちまんやまじょう)と呼ばれました。

その城下町の整備にもセンスを発揮して、人々が暮らしやすく、商工業も発展できる街づくりを行いました。後に江戸時代中期まで「久兵衛町」と呼ばれたことからも、その功績と人望が偲ばれます。

若い頃より信心してきた近江八幡(現:日牟禮八幡宮)のご加護もあってか、まさに水を得た魚のように活き活きと奉公した久兵衛ですが……。

「……何でもない」

面白くないのは、主君の秀次。何でもかんでも久兵衛がこなしてしまうので自分の存在感は薄れるばかり。

もちろん、謙虚な久兵衛ですから驕り高ぶることなく、何よりも自分を第一に立ててくれるし、秀吉の覚えめでたくなるよう万事整えてくれるのですが、それすらも久兵衛の評判を高めるばかりでした。

まだ18歳と若いから仕方ないことではありますが、一日も早く実力を示したくて、焦ってしまうのもまた若さゆえ。

「それがしが18歳の頃など7石2人扶持で、その日の飯にも一苦労する有様にござった……片や御屋形様は、18歳のお若さで43万石の大大名。それがしなど及びもつかぬ御身分にございますれば、今に関白(秀吉)様の右腕として天下を動かす大仕事をなされましょう……」

「……そうか……」

久兵衛に励まされた秀次でしたが、天正十二1584年の小牧・長久手の合戦では老獪な徳川家康(とくがわ いえやす)の術中にハマって大失態を演じてしまい、秀吉や周囲の期待に応えられなかった過去があったのです。

「……まぁまぁ、勝敗は武門の習い……敗戦の教訓を次の勝利に活かすことこそ、知略の礎にございまする」

「……そうだな」

その後、秀次は天正十四1586年の九州(島津氏)平定、そして天正十八1590年の関東(北条氏)征伐に武功を立て、子供のいない秀吉の後継者としての信頼を再び築き上げていったのでした。

よく秀次を盛り立てた久兵衛も戦功によって三河国岡崎城57,400石(現:愛知県岡崎市)の所領が与えられ、ついに城持ち大名となるのですが……。

5ページ目 秀次の切腹に際して、殉死よりも奉公を選ぶ

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