前回のあらすじ
戦国時代、近江国(現:滋賀県)で百姓の子として生まれた久兵衛(きゅうべゑ)こと田中宗政(たなか むねまさ。後の田中吉政)は、地元の領主・宮部継潤(みやべ けいじゅん)に仕えます。
百姓時代の苦労を知っているため、武士になっても威張り散らすことなく民百姓の声をよく聞いて施政に取り組んだことから、主君や同僚、民衆から神様に至るまで幅広く愛されたようです。
主君の娘婿となって、より一層の奉公に励んだ久兵衛ですが、彼らの元にも戦国乱世の風雲が容赦なく迫るのでした……。
前回の記事
百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【上】
叔父との決別……浅井家を見限り、秀吉に寝返る
時は元亀元1570年、近江国の戦国大名・浅井長政(あざい ながまさ)は美濃・尾張両国(現:岐阜県南部&愛知県西部)に勢力を伸ばしていた織田信長(おだ のぶなが)との同盟を破棄して宣戦布告。
久兵衛は主君に従って長政に味方し、信長の部将・木下藤吉郎秀吉(きのした とうきちろうひでよし。後の羽柴秀吉)と対峙することになりました。
しかし金ヶ崎での敗戦(同年4月25日)以来、織田方は慎重になっていて力押しはせず、また久兵衛らも浅井家の重要拠点である宮部城を堅く守り続けたため、睨み合ったままで約2年半の歳月を費やします。
「久兵衛よ……わしは木下殿にお味方する!」
元亀三1572年10月、秀吉の調略により宮部継潤が織田家へ寝返った理由はハッキリしませんが、主君である浅井長政を見限るキッカケでもあったのか、あるいは持ちかけられた報酬がよほど魅力的だったのかも知れません。
いずれにしても重要な防衛拠点を失った浅井長政は劣勢に転じることとなり、久兵衛は宮部継潤と共に、織田家への忠誠を示すため、国友城(現:滋賀県長浜市)へと進攻します。
「おのれ宮部……浅井家を裏切った上は、最早うぬなぞ主に非ず!」
国友城を守るのは国友与左衛門(くにとも よざゑもん)、久兵衛にとっては叔父(母・竹の弟)であり、また義理の舅(※)にも当たります。
(※)久兵衛は宮部継潤の娘婿ですが、彼女は与左衛門の娘で、宮部の養女になっていました。
「久兵衛よ……今からでも遅うはない、そなただけでも考え直せ!」
「すまぬが叔父上、我らは我らの道を行く!」
「されば是非もなし……参れ!」
「おう!」
烈しい攻防戦の中で宮部継潤は国友一族自慢の鉄炮(※国友村は当時、全国有数の鉄炮産地でした)によって負傷、多くの犠牲を出したもののどうにか攻略。与左衛門は逐電したのか、以降の行方は知れません。
「……叔父上、どうかご無事で……」
その後も一年弱にわたって戦闘が繰り広げられ、翌天正1573元年9月1日に浅井家は滅亡。長政は切腹して果てたのでした。