文武両道で容姿にも優れ、自由奔放な性格から将来を嘱望されていた飛鳥時代の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)。わずか24歳という若さで謀反人として自死に追い込まれてしまいました。
その弟に深い愛情を注ぎながらも、生まれ育った飛鳥を旅立たなければならなかった姉・大伯皇女。別々の道を歩むことになった二人に忍び寄った悲劇とは……
万葉集に伝わる二人の和歌も絡めながらご紹介しましょう。
【その1】でご紹介した弟・大津皇子と姉・大伯皇女のプロフィールや二人が離れ離れになるまでのストーリーは、ぜひこちらをご覧ください。
引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】
大津皇子の死の真相とは
大津皇子の死については、鵜野皇后(うののこうごう/後の持統天皇)の謀略説が一般に知られています。
天武天皇崩御直後の混乱期に、皇太子の草壁皇子(くさかべのみこ)の地位を大津皇子に脅かされることを怖れ、無実の罪を被せ死を命じたというものです。
草壁皇子は本当に凡庸だったのか?
この説は、草壁皇子が凡庸な人物であったということがベースになっているようです。大津皇子に比べ、正史に草壁の記述が少ないということも、その理由として挙げられます。
しかし、それは草壁が即位前に死去したためであり、天武天皇という絶対的権力の下では、目立った事績を残していないのは不思議なことではないのです。
草壁について気がかりなことがあるとすれば、健康に問題があったのではと考えられることです。天武天皇が崩御しても皇位に就くことなく、鵜野皇后が称制(※)を行います。
このあたりの事情を正史は明らかにしていませんが、なんらかの理由があったはずです。
※称制…天皇が在位していない時に、皇后や皇太子が代わりに政務を行うこと。
草壁皇子を頂点に諸皇子結束が天武と鵜野の願い
天武天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)の願いはただ一つでした。「吉野盟約」(※)で誓われたように、天武の次の治世は、草壁皇子が天皇に即位し、彼を頂点として、高市皇子、大津皇子らの諸皇子が補佐することでした。
そのうえで、律令を有した強固な中央集権国家を確立すること以外はなかったのです。
※吉野盟約:
679年、天武天皇が鵜野皇后をはじめ、草壁・大津・高市・川島・忍壁・施基の6皇子を伴い、吉野に行幸。草壁を頂点に諸皇子が結束することを盟約した。