神奈川県のほぼ中央に位置する大和(やまと)市。
大和と言えば奈良県の旧国名であり、倭建命(ヤマトタケルノミコト)や戦艦大和などのかっこいいイメージや、大和撫子(~なでしこ。美しい日本女性の代名詞)や大和言葉(日本古来の美しい言葉)などの優しいイメージ、そして身近なところでは、クロネコヤマトのお世話になっている方も多いでしょう。
神奈川県の大和市も何か奈良県に由来するエピソード、例えば倭建命が東国を遠征する際に立ち寄ったとか、そういう伝承でもあるのかと思って調べてみたら、どうもそういう事ではなかったようです。
いったい大和市というネーミングにはどういう理由があったのか、今回はそれを紹介したいと思います。
4つの村が合体するも……対立の激化、分裂の危機
時は明治二十二1889年、4月1日付で町村制が施行されたことにより、神奈川県高座(こうざorたかくら)郡にあった村々も統合されていきました。
この辺りでは下鶴間(しもつるま)村・深見(ふかみ)村・上草柳(かみそうやぎ)村・下草柳(しもそうやぎ)村の四村が合併して鶴見(つるみ)村と改称します。
これは下「鶴」間と深「見」の文字を語呂よく採ったもので、上草柳と下草柳の文字は使われず、現地の人々からは不満の声が出たそうです。
恐らく、村同士の力関係によるものと考えられますが、だからと言って上草柳と下草柳でタッグを組んだだけでは、下鶴間&深見には太刀打ちできません。
一方で下鶴間も、本当は上鶴間と合併したかったけど、北の大野村(現:相模原市南部)に行ってしまったし、今からでもそっちに入れてもらおうかな……そんな不満もあったようです。
そもそも、元からあまり交流がなかったからこそ四つの村に分かれていた訳で、いくら国策だからと無理やり一緒にすれば、対立は避けられません。
対立の詳細については記録が乏しいものの、旧村同士の交流断絶や誹謗中傷、境界や権利をめぐる暴力沙汰などは想像に難くありません(※20世紀の昭和期に入っても、こうした事例は各地で聞かれます)。
対立は激化の一途をたどり、ついには明治二十四1891年、分裂の危機を看過できなくなった神奈川県知事・内海忠勝(うつみ ただかつ)が仲裁に乗り出したのでした。