報道によると、明智光秀(あけち みつひで)が主君・織田信長(おだ のぶなが)を暗殺したクーデター「本能寺の変(天正十1582年6月2日)」の直後、光秀の重臣である明智秀満(ひでみつ)が、瀬田城主の山岡景隆(やまおか かげたか)と琵琶湖で船戦(ふないくさ)に及んだ古文書が、新たに発見されました。
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古文書は景隆の七男・山岡景以(やまおか かげもち)が自家の由緒をまとめた「山岡景以舎系図(~いえのけいず)」で、天正十九1591年に石山寺(いしやまでら。現:滋賀県大津市)に奉納されたものです。
弥平次(やへいじ)と通称で記された秀満は、琵琶湖北岸の安土城(現:滋賀県近江八幡市)へ向かう途上、山岡景隆を仲間に勧誘するも、亡き信長へ対する忠義ゆえに拒絶されてしまいます。
そればかりか瀬田の橋を焼き落として進路を妨害されたため、水路を行こうと船を乗り出したところ、琵琶湖上で戦闘に発展。少なからぬ損害を出して秀満らはやむなく転進、その後の行動に遅れをとってしまったそうです。
これまで、秀満は愛馬にまたがって琵琶湖を泳ぎ渡ったという「湖水渡り」の伝承で知られてきましたが、今回の船戦が「秀満なら、そのくらいはやりかねない」という彼の剛勇さを伝える元ネタになったのかも知れません。