実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】

時は平安末期の治承四1180年8月、驕り高ぶる平家政権を打倒するべく、伊豆国(現:静岡県の伊豆半島)で挙兵した源頼朝(みなもとの よりとも)公。

しかしその前途に立ちはだかった相模国(現:神奈川県の大部分)の大庭景親(おおばの かげちか)にあっけなく撃破されてしまい、命からがら逃げ出すことに(石橋山の合戦)。

山中に隠れ潜んでいた頼朝公をあと一歩のところまで追い詰めた景親でしたが、頼朝公と内通した梶原景時(かじわらの かげとき)に騙されて頼朝公を取り逃がしてしまいます。

九死に一生を得た頼朝公は相模湾を渡り、房総半島で力を蓄えて捲土重来、景親を倒して鎌倉の地で幕府を開いたのであった……ちょっとざっくりですが、そんなストーリーが定説として広く知られています。

しかし、この歴史物語には諸説あり、石橋山の合戦で「大庭景親は、頼朝公の隠れ場所を知っていながら、あえて見逃した」という見解もあるようで、もしそうだとしたら、景親はどうして頼朝公を見逃したのでしょうか。

今回は、その謎について考察していきたいと思います。

『吾妻鏡』と『源平盛衰記』……両書の違いと共通点

その前に、まず定説の根拠となっているのは鎌倉幕府の公式記録(歴史書)である『吾妻鏡(あづまかがみ)』、それに対して異説の手がかりとなっている記述は、後世の軍記物語である『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』に見られます。

公式記録と軍記物語では信憑性が比較にならない、と思われるかも知れません。しかし『吾妻鏡』の編纂は源平合戦も遠い昔となった鎌倉時代の中期で、当事者たちは既に亡く、古老たちの伝承をまとめた点では、公式記録とは言っても信憑性に疑問も残ります。

だからと言って、誇張や脚色も自由な軍記物語と全く同列に語ることは出来ないものの、往時の武士たちが息づいていた空気感には一定の共通性(※)が見られるため、考察の手がかりにはなりそうです。

(※)『源平盛衰記』やその元となった『平家物語』は、『吾妻鏡』とほぼ同時期である鎌倉時代の成立と考えられています。結局のところ、武士たちの言い伝えに「幕府のお墨付き」があったか否かの違いとも言えるでしょう。

この点を踏まえて両書の違いを紹介しつつ『源平盛衰記』の記述から、大庭景親が「なぜ、頼朝公を見逃したのか」について考察を進めていきます。

3ページ目 頼朝公「九死に一生!」シーンを両書で比較

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