幕末の京都を闊歩して、過激派尊攘浪士たちを取り締まった新選組(しんせんぐみ)。
局長の近藤勇(こんどう いさみ)や「鬼の副長」土方歳三(ひじかた としぞう)をはじめ、個性派揃いな主要メンバーの活躍はよく知られるところですが、最大で200名以上もいた新選組は、そのほとんどが名前もよく知られていない平隊士で構成されていました。
そう聞くと、中には「新選組と言っても凄いのはごく一部で、多くの隊士は大したこともなかったのだろう」と思ってしまう方もいるでしょうが、世の中必ずしも「有名じゃない=凄くない」訳ではありません。
そこで今回は、古参かつ歴戦の勇士でありながら平隊士の身分を最期まで貫いた、ある隊士たちの生涯を追っていきたいと思います。
結成初期の壬生浪士組(新選組)へ入隊
彼の名は蟻通勘吾(ありどおし かんご)。天保十1839年に讃岐国高松(現:香川県高松市)で生まれ、新選組へ入隊したのは壬生浪士組(みぶろうしぐみ。新選組の前身)結成から間もない文久三1863年6月、当時25歳と言われています。
愛刀は播磨住昭重(作:弘化三1846年2月)、刃渡り二尺四寸(約90cm)余りと言われていますが、その根拠とされる『会津守護職様御預新選組御一等様御刀改控』という書物については信憑性に不安があるため、「そんな刀を使っていたのかも知れないな」くらいに思えばいいでしょう。
勘吾の同期入隊者には加賀国(現:石川県)の脱藩者で2歳年下の山野八十八(やまの やそはち。天保十二1841年生)がおり、二人とも剣術・胆力に定評があったそうです。
八十八は義経神明流の腕前に加えて「美男五人衆」に数えられるほどハンサムで、入隊して間もない文久三1863年8月、四条堀川の米屋に押し入った強盗の捕縛に当たった際、火縄銃で撃たれても恐れることなく任務を完遂しました。
年齢の近い同期入隊ということで、お互い多少なりともライバル意識があったろうところ、早々にリードされてしまった感のある勘吾。
しかし、入隊2年目にして逆転のチャンスが巡って来たのでした。