怒り抑えきれず…「新古今和歌集」の選者だった藤原定家は暴力沙汰を起こしたことがあった!?

拾丸

歌聖や日本最初の近代詩人と呼ばれた藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)。和歌の世界になくてならない存在だった定家は実は暴力沙汰を起こしたことがありました。

歌人である定家に暴力は結び付かないかと思いますが、今回は定家が何をしたのかをざっくり説明すると共に暴力沙汰のこともご紹介します。

定家は何をした人?

定家は藤原俊成の次男で生まれながらにして天才肌を持っていました。その才能は後鳥羽上皇や後堀川天皇に目を付けられ、勅撰和歌集の『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の選者に任命されます。

また、武士で歌人でもある宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を制作しました。『小倉百人一首』は現代では競技かるたに用いられるほど、知名度が高いものとなっています。

定家は和歌集の撰進だけではなく『更級日記』や『伊勢物語』などの古典を自らの手で注釈を加えます。

この時に用いた仮名遣いは「定家仮名遣い」と称され、明治時代まで一定の支持を得ていました。

鎌倉時代まで生きた定家は仁治2年(1241)に74歳の大往生を遂げます。自身の家である藤原北家御子左流(みこひだりりゅう)を歌道の家として確立させた定家は、現代でもその名を広く知らしめることとなりました。

3ページ目 性格も相まって暴力沙汰へ

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