時は幕末。京都の街を闊歩した新選組(しんせんぐみ)は、尊王攘夷を掲げて幕府を補佐する「佐幕派」の急先鋒として不逞浪士は元より、倒幕を目論む薩摩・長州藩士など「開国派」の暗殺・粛清に活躍したことで知られています。
しかし、新選組は身分や出自を問わず幅広く人材を求めたことから、その思想面において必ずしも一枚岩ではなかったようです。
今回はそんな一人・三浦啓之助(みうら けいのすけ)の生涯を紹介していきたいと思います。
啓之助は開国派の洋学者として知られる佐久間象山(さくま しょうざん)の庶子として、嘉永元1848年11月11日に誕生(母親は愛妾・お蝶)。初名を佐久間恪二郎(かくじろう)と言いました。
そんな恪二郎は元治元1864年、17歳で父・象山に随行して故郷である信州松代藩(現:長野県長野市松代町)から上洛します。
父の仇討ちで新選組に入隊!
しかし同年7月11日、象山が京都の三条木屋町で「人斬り彦斎」こと河上彦斎(かわかみ げんさい)らの襲撃に遭い、暗殺されてしまいました。
「父上っ!」
(※ちなみに、彦斎は元から象山を斬る予定ではなかったものの、「汚らわしい西洋の鞍を載せた馬で神聖な京都の地を闊歩していたから」というかなり過激な動機による場当たり的な犯行だったそうです)
正式な後継ぎを定めていなかったため、佐久間家は断絶。悲しみに暮れる恪二郎を奮い立たせようと、象山の弟子であった山本覚馬(やまもと かくま)が仇討ちを勧めますが、なにぶん相手は泣く子も黙る「人斬り彦斎」とあって、なかなか決心がつきません。
そこでとりあえず、剣客集団として知られた新選組に入隊すれば、もしかしたら助太刀くらいは恃めるかも知れない……と思ったかどうかはともかく、恪二郎は屯所の門を叩きました。
攘夷派が多い新選組の中で、開国派であった佐久間象山の息子だとあまり知られたくない事情から、名字を義母(勝海舟の妹・順)の「三浦」に変え、名前も父親の諱(いみな。本名)である啓(ひらき)を冠して「啓之助」と改め、ここに恪二郎は三浦啓之助となったのでした。