「鳴くまで待とう ほととぎす」の徳川家康、でも実際には気が短かった説。

湯本泰隆

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ということ16世紀末を代表する3人の英傑たち。彼らの性格を表したものとして「鳴かぬなら~」ではじまる句は誰もが知っていると思います。

織田信長なら「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」、豊臣秀吉なら「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす」、そして徳川家康なら「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」。それぞれ、強引さ、積極性、忍耐力を表しているとされています。

徳川家康は実は短気だった?

徳川家康は、この句によって、気が長いかのように思われがちですが、実は短気だったという見方もあります。それは家康がちょうど30歳だった1572(元亀3)年、三方ヶ原の戦いの際、目の前を通り過ぎる武田軍の挑発に我慢することができず、城から出て突入し、返り討ちにあったということもありました。

このような話などから、家康は若い頃、血気盛んで軽率な行動も多かったのではないかと考えられています。

しかし、こういう、自分自身の短気な一面は本人もよく理解していたようで、この敗戦の直後、馬上で動揺している自分自身の絵を絵師に書かせて、目の見えるところにかざり、一生涯の自身への戒めとした話が伝わっています。

顔を顰(しか)め憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれている。

また後に、自分をここまで苦しめた武田信玄に敬意を表し、武田滅亡後は元武田兵たちを多く召し抱え、武田軍の軍制も学んだと言います。

3ページ目 多くの失敗と挫折を乗り越えて征夷大将軍に

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了