誰が呼んだか日本の「三大怨霊」と言えば、無実の罪で大宰府(現:福岡県)に流された菅原道真(すがわらの みちざね)、保元の乱に敗れて讃岐国(現:香川県)に流された崇徳院(すとくいん)、そして「新皇」と称して坂東の地に新王朝樹立を宣言するも、あえなく討伐されてしまった平将門(たいらの まさかど)。
いずれも平安時代の人物で、それぞれ非業の死を遂げた怨みの深さが、恐ろしい祟りをなしたことで知られています。
今回はその一人である平将門の怨霊伝説について紹介したいと思います。
平将門と天慶の乱
まず将門の略歴をごくざっくりと紹介しますが、諸説あるものの最近の研究では延喜十910年ごろの出生と推定されています。桓武天皇の5世or6世子孫として下総国豊田郡(現:茨城県南西部)で生まれ育ち、青年期は京都で仕官。
滝口武者(たきぐちのむしゃ。朝廷の警護役)として将来を嘱望されますが、故郷で父・平良持(たいらの よしもち)が亡くなると、エリートコースを辞退して帰郷します。
間もなく父の遺領相続を巡って一族と争い、その戦乱は次第にエスカレート。将門に敗れた者たちが朝廷に「将門に謀叛の企みあり」と訴えると、不器用な将門は弁解もままならないまま、謀叛人にされてしまいます
無実を訴えるためには、戦って勝つより他にない。そう信じた将門はなおも戦い続けて坂東八州と伊豆国の合わせて九か国を占領、神憑りとなった巫女の託宣を受けて「新皇」に即位。日本半国の領有を目指す新国家の樹立を宣言したのでした。
当時、東国は朝廷から派遣された国司の圧政に苦しめられており、その解放を大義とした将門の新国家樹立を歓迎したのも束の間、即位からおよそ2か月で「新皇」将門は、宿敵である平貞盛(たいらの さだもり)と藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)にあえなく討たれてしまったのでした。
享年およそ30歳と言われています。
時は天慶三940年2月14日、後世「天慶(てんぎょう)の乱」と呼ばれる空前絶後のクーデターでした。