京都には、海がありません。しかし、いやそれゆえに、明治以前は河川交通が発達していました。そして、河港として京都の入口の役割を果たしていたのが、洛南の伏見です。
伏見というと、酒処をイメージされる方も多いかも知れません。もちろん、地下水に恵まれたこの地は、大昔から良質の酒を生み続けてきました。が、現在のように街中がとことん酒蔵だらけになったのは、明治以後。それまでは、ここはれっきとした「港町」でした。
淀川を通じて大阪そして瀬戸内海へ直結する、水上交通の一大ターミナル・伏見。旅客目当ての飲食店や遊興施設が軒を並べ、舟宿も大変繁盛したといいます。で、その舟宿の中の一軒が、あの「寺田屋」だったりします。
幕末、多くの志士や、志士を狙う人たちが、伏見港を経由して京都へ上りました。坂本龍馬もその中の一人であり、いわゆる「寺田屋事件」は舟宿に宿泊してるところを狙われたわけです。御所周辺でドンパチが起こる時代、伏見もまた不穏な空気に包まれます。
で、とうとう、鳥羽伏見の戦いが起こりました。近代兵器を駆使する新政府軍は旧幕府軍をボコボコにしますが、伏見もトバッチリを受けボコボコに。市街地のほとんどが丸焼けとなり、明治以降は水運も衰退した伏見は、新しい街作りを余儀なくされます。で、現在のように酒造が前面化したわけです。
毎年8月最初の土曜日、寺田屋の前の寺田屋浜では、灯籠流しが行なわれます。名づけて「伏見万灯流し」。鳥羽伏見の戦いの戦没者を慰霊する行事です。始まったのは、2004年。かなり、最近です。ボロボロにされた恨みで最近まで放置されたというわけでもないでしょうが、でも実際、この灯籠流しは地域の普通の灯籠流しのテイストが強かったりします。幕末ファンとか新撰組ファンが大挙してやってくる、とかではなく。
流された灯籠は、月桂冠の酒蔵の前を幽玄なビジュアルを見せながら流れ、やがて宇治川から淀川へ入り、大阪湾へ下っていく・・・ことはありません。途中で回収されます、環境保護ゆえ。舟どころか、灯籠さえ「出航」できない、現在の伏見。万灯流しは、伏見が失った「港町」としての顔への慰霊でもあるのかも知れません。
伏見港 – Wikipedia
鳥羽・伏見の戦い – Wikipedia
寺田屋事件 – Wikipedia